2021年2月13日土曜日

人はいつ、呼吸の仕方を習うのか

ヨガを教えている大学の授業、半期に一度の学生の最終レポート一気読みが終わった。

今期はいつもに増して「運動はこれまで苦手でした」もしくは「かつてバレエやダンスを習っていました」と言う学生が多かった。


そして、ダンスやバレエを習っていた学生たちが口を揃えて言う、「ストレッチには自信があったけれど、ヨガで呼吸をつけるだけでこんなに伸びが違うことが驚きだった」という内容は毎回頭を縦に振りながら読んでいる。


運動のことを勉強している今になれば絶対だけれども、ストレッチと呼吸は切っても切れない関係がある。

おおよそ、ストレッチを呼吸を意識せずに行なうと、痛みを感じて息を止めてしまっている場合が多いように思う。ヒトの体の仕組みとして息を吐いた方が筋肉の伸びは良いのだが、それを教えてもらえる機会はあまりなかったように思う。


私もヨガをやり始めた頃に、呼吸に注意しながら行うことで得られる効果の違いとても驚いたので、かつて踊っていたという彼女たちの意見は驚きはよくわかる。

私もよく「なんでこれまで誰も教えてくれなかったんだー!」と思ったものだ。その結果、今の方が身体は柔らかい。

もしかしたら、情報の流行りとか、指導の傾向あるかもしれないけれど。



話は少し変わって、毎度お馴染みの子供バレエクラス。

未就学や小学生が中心だけれども、きっと彼女たちが成長していったときに思い出すであろう、かつてバレエをやっていたであるその時期を、今目の前で見ているわけだ。


いつか、彼女たちが大学生や大人になった時、昔バレエでこんなこと習ったな、と思い出すことがあるのだろうか。

「そんなこと教えられたことなかった」より「なんかそんなこと言ってたような気がする」が多ければいいなと思う。



昨日レッスン後、チアダンスもやっているという熱心な子に「2回転ピルエットがどうしたら上手にできるかアドバイスをください」と言われて色々話をした。その時は当たり障りのない提案しかできなかったけれど、試しに「呼吸に気をつけてみたら?」と言ってみようかな。


その子は小学生にしてすでに背中で手が繋げないほど肩こりになっていて、おそらく肩に力が入りやすいのだろう。

私の目の前でやろうとして出来なくて、「さっきはできたのにな」とちょっと焦っていた。


仕事からの帰り道そのことを思い出していて、「きっと多分息を止めて回ってるんだろうなぁ」と思い至った。

呼吸を上手くコントロールするなんて大人でも難しいけど、上手くできたら絶対ブレないと思われる。

きっと、「何言ってんだこの先生」と思われるだろうしすぐには分からないと思うんだけど、来週興味本位で提案してみようと思う。



話は戻って、学生のレポートで今期私的ベストレポート賞は、「無我の境地」について自分が考えたタイミングと仏教との触れ合いを事細かに説明していたレポートだ。ぶっちぎりでノリノリで書いていて面白かった。


彼女は小学生の時に漫画「エースをねらえ」が好きだったらしく、そこで出てきた「無我の境地」に惹かれ、それが仏教用語だったと高校の仏教思想の授業で知り、また大学生になってヨガの実践を通して無我とは何かということについて再び考え直したそうだ。

その時々で彼女が心動かされたことがきちんと彼女の経験として蓄積されていることが文章から感じられて、その折り重なる地層の一部にヨガの経験も入っていることが嬉しかった。


その時は理由や詳細なことまではわからなくても、心動かされ興味を持ったものがいつか未来でつながり、「あれはこういうことだったんだ」「自分はこういうものが好きだったんだ」と知っていくことはとても素敵で豊かなことであって、それが個性になっていくのだと思う。


この学生は自分で考え、それを発信しようとする力がすでにあるけれど、自分が触れ合う子供たちは意外と、そういうものを隠そうとするように感じることも多い(私の圧のせいか?と反省することもあるけれど)

出来るだけ「どう感じるの?何が好きなの?」と訊くようにはしているけれど、真面目に「どっちでもいい」と自分のことですら無関心な返答が来ると本当に不安になる(と同時にしつこくしすぎたか?と反省する)



話が逸れたが、タイトルを[人はいつ呼吸の仕方を習うのか]とした。

おそらく、多くの人にとって呼吸は当たり前にしているものであって、呼吸について特に考えることもなく人生を終える人もいると思う。習ってまでやることでもない。

でも、呼吸の仕方一つで、身体の状態を変えたり効果的に身体を使ったりすることもできるようになる。呼吸は究極にシンプルにして一番難しい身体のコントロールだと、私は思う。


学生のレポートには、内容は一切指定しなくてもその多くに呼吸への注意によって変化する身体について、驚いたとか面白いと言った内容が書かれている。


「習う」とは、とあるタイミングで「教えられた」ということと必ずしも一致するわけではないと考える。

感心や興味もしくは嫌悪のいずれにしても、心が動いた=感情が揺れた瞬間がその人の心と身体の経験となり、その経験を以て主体的に考え身に付けていくことが「習う」なのではないだろうか。

2020年10月17日土曜日

先生は選べない

子供のバレエクラスのアシスタントを、かれこれ5年やっている。
80人前後を4クラスで分けたかなり大所帯のお教室で、下は年中から上は小6までが在籍している。

先生はプロのバレエ団にいた/いる方や、専門のバレエ指導の技術を学んだ方などで、一緒に働いた先生はのべ5人にもなる。
アシスタントはずっと私なのに、メインの先生が妊娠出産で次々に変わった結果、私も子供と一緒に歳をとった。幼稚園児だった子たちは気づけば5年生になった。

子供の成長を側から見ているのはとても楽しい。それが例え週に一回でも、もしかしたら週に一回だからこそ、興味深くて面白い。
クラスが進級したことで気持ちに変化があったり、後輩ができてやる気が出たり(幼稚園児でも)、かつてはベタベタに甘えてきた子が思春期で超素っ気なくなったり、もちろんだんだんできることが増えていく様子も含め、親とはまた違った目線で眺めている。


その中でも、子供たちが大きく変化するタイミングの一つに、"先生が変更になる"ということがある。
同じバレエでも、これまでの先生とは違う教えられ方をすることで、子供たちの微妙な戸惑いに私自身敏感になってしまう。
何より私も少し戸惑う。なんなら教える先生だって戸惑っていて、やはり馴染むのに時間はかかる。

その結果、やる気の無くなる子もいる。
それを見ているとつい、「以前はこういうやり方だったので」と口を挟みたくなる。でもその一方で、先生が変わった事で伸びる子もいる。

だから全体として、良い先生・悪い先生というのは(そもそも人として熱意がなかったり不誠実な人なら教える人として失格だけど)、簡単に決められないんだなとつくづく思う。


子供はなかなか、自分の意志で先生は選べない。
でもそれは、決してネガティブなことばかりではないと思う。
新しい刺激にさらされることで、何が自分にとって頑張れるもので、何が自分にとって合わないものなのか考えるきっかけになればいいのかなと思う。


レッスンの最中に、「今子供たちはどんなことを考えてるんだろう?」と考える時、では果たして自分が子供の時はどんな気持ちだったんだろうとよく考える。
しかしバレエの先生や小学校の先生に対しどんな気持ちを抱いていたか、幸か不幸か全然覚えてない。やめてしまった習い事なら尚更、先生がどんなことを教えてくれたのか思い出せない。

今教えられていることは彼女らの記憶にどれくらい残るものなんだろう?とふと考えてしまう。
でも私自身、ポツリポツリと強烈に覚えていることはあって、それは今でも自分の考え方の元となるようなものだったりする。


最近は叱らず褒める教育がなされることが多いと聞く。けれど、そもそも叱るって誰が何を駄目というのか、褒めるって一体何が良いことなのか、叱ると褒めるの間はないのか、そんなことを思う。

良いものばかりを与える、間違いのないものや優れたものだけを与える。
ともするとそれは、与える側が"良いもの""間違いのないもの"を子供に押しつけて、自由な感覚な発想を狭めてしまってはいないだろうか。




人間は、理性的に物事を精査し判断を下しているように思えて、最後の最後は「好ましい」「好ましくない」と言ったとても感情的で主観的な判断をしているらしい。

上手に説明するのが難しいけれど、例えば何か購入したいモノがあるとき、そのものがどれだけ優れていて生活に彩りを添えてくれるものか、一方購入することで起こる障害は何か、一生懸命考えて理由づけはするけれど最後に購入するという一手を後押しするのはそのモノが「好ましい」「好ましくない」という単純な二択だ。もしくは、購入するという行為自体に対し「好ましい」「好ましくない」という判断かもしれない。

そしてそれは物を買うということに限らず、日々の沢山の、意識に上ることもない些細な選択にも当てはまる。

話が壮大になってくるので説明不足のまま終えてしまうけれど、
何が良くて何が良くないかなんて、きっと誰かに証明してもらう物でもなく、理由づけだって文化や生活習慣がそうさせているものも多く、結局あくまでも個人の感覚や受け取り方次第と考えられなくもない。
そしてそれは大人・子供関係なく一人一人が選択していくものであると同時に、互いに他人の感覚を尊重するべきなのではないかと思ったりするのです。




なんて講釈は考えても、結局レッスンの最中咄嗟に手の形が違うとか左右が逆とか突っ込んでしまうし、そもそもそんなことより「先生トイレ~」攻撃で10分くらいトイレの世話につきっきりになったりね。
そろそろ鬼滅の刃の登場人物の名前を覚えないと対応できないと思う今日この頃。

2020年5月23日土曜日

挫折と嫉妬

YouTubeで配信されたセッションハウスのオンライン劇場の動画を見た。柿崎まりこちゃんの回。

国内外で踊ってきた彼女のダンスは人の目を惹きつけるとても素晴らしいダンスで、ながら見のつもりがしっかり引き込まれてしまった。


初めてまりこちゃんを見た、というか同じ作品に出たのは、大学生の頃。
関東圏の大学の合同公演での、平原慎太郎さんのダンス作品に参加した時。
おそらくきっと、彼女は覚えてることもないだろう。でも主役に抜擢された彼女の踊りを端から眺めていた私は、なんとも言えない悔しさと羨ましさを感じたことを、今でも覚えている。

思えば、大学進学あたりまでは、割と自分の思い通りにいく人生だった。
宝塚を受験してもちろん受からなかった時は一時すごく悲しかったけれど、それでも努力すれば何とかなると思っていた。勉強とか。

大学に入って、ダンス部で踊ったり、自分の作品を作り始めたりして、思い通りにならなくてもどかしい思いをたくさんした。
簡単にいえば、それまでより広い世界へ足を踏み入れたことになるんだろうけれど、評価されないことの悔しさは何度も味わった気がする。
学生の頃は特に、自分のその時の全てを捧げて作った作品は、大袈裟だけどこの世で1番だと信じていた。それが端にも棒にも掛からない時の絶望感。作品の詳細はもはや忘れても、身体の中で渦巻くやり場のない怒りのようなものは今でも覚えている。
だからコンペは苦手、逃げてしまう。
自分のやりたいことと、世の中に必要とされ価値を与えられることのギャップがすごく苦々しく感じられた。

簡単にいえば、実力不足なんだけど。
ラッキーなんて、そうそうない。


話は飛ぶけれど、今私はヨガやバレエなどのオンラインレッスンをしている。
コロナ禍の中でみんな不便や不安を抱える中、一介のインストラクターとして、無料公開やドネーション制のレッスンをすることも頭をよぎった。
こんな状況だからこそ、お金を頂くことに少し罪悪感もあり、でも私自身生きていかなければならないこともあり思い悩んだ。
結果、自分の持てる技術はきちんと出し切ってお金をもらうという方向へ舵を切った。

ダンスの世界では、やりがいということが大きな目的になりがちでもある。
ダンスを見てくれた人が「よかったよ」と声を掛けてくれる。誰かの時間を自分のダンス見てもらう時間にあててもらうことの掛け替えのなさ。自分のダンスが誰かに届いたらそれで幸せ。もちろん、それは間違いない。
大切なのはお金ではない。その通りすぎる。
それでも、仕事を休んで何日もかけて稽古をして、身も心も削って、収益的にマイナスということはザラな世界。それでもみんなふんわり幸せそうな世界。皆、たくましすぎる。

私は身体を動かすレッスンを人に教える中で、自分の身体で持てる技術とは何なのか、自分の伝えられるダンスとは何なのかということを考え、それをきちんとお金という価値に置き換えてみたいと思ってやってきた。
正直はじめは、ヨガを教えたいと思っていたわけではなく(今はとても面白いと思うけれど)、自分のやってきたことにキャッチーな看板を掲げようとしただけでもある。
でも限りなく自分のしたいことだけして社会人として食っていけていることは、ほんの少しだけ自慢でもある。

だけど。
私だって、ダンサーとしてだけで食っていくことへの憧れもある、本当は。

舞台で、照明に身体が照らされて肌が火照る感覚や、空間を震わせる音楽と自分の身体がリンクした時の鳥肌、客席からの視線が突き刺さる痛みのようなものは、この身体の生のぎりぎり境界線を綱渡りするようで、自由の恐怖と快感を同時に味わう。
それこそ、踊ってて味わうことのできるものは、お金では到底替えの効かないものなんだ。

それだけやってていいなんて、なんて幸せだろうなと思う。
ただ、それで拍手を貰える人はほんの一握り。

だからこそ羨ましくて、嫉妬する。

まりこちゃんのダンスを久しぶりに見ながら、やっぱりいまでも私は彼女に嫉妬しているんだと思った。
あんなにダンスが素敵で、可愛くて、誰もが放って置かないような人はやはり、ほんの一握りなんだ。

でも、嫉妬しててもいいじゃない、とも、少し思った。嫉妬する自分を否定することもまた、なんだか居心地が悪い。
滅茶苦茶嫉妬して、だったら自分なら何ができるか考えて、私も少し踊ればいいじゃない、て。

2020年4月14日火曜日

オンラインプライベートレッスン はじめました!

ヨガ・ストレッチ・筋力トレーニングなど、
ご要望に合わせたメニューをご用意いたします。
ご自宅で、PCやスマートフォンを使って、一緒に運動しましょう!


【受付時間】

9:00〜23:00
(5月6日までは上記時間で対応可)


【メニュー】

どのような運動やストレッチがしたいか、ご希望を伺って、お時間に合わせてメニューを組みます。

ご要望例)
・リモートワークで運動不足になった
・普段運動していた施設の休業で運動習慣が途切れてしまった
・今まで運動してこなかったけれど、この機会に運動を始めてみたい
・マンションで行うため、あまり騒がしくないメニューが知りたい


◇ 30分レッスン ¥3,000

◇ 45分レッスン ¥4,000

◇ 60分レッスン ¥5,000

(基本は3つの時間区分ですが、色々身体の状態やご要望のお話を伺ったり、レッスン時間外でできる別のトレーニングなどについて盛り上がったりしまって、だいたい少し長めになってしまっています。)


【通信方法】

・LINEビデオ通話
・zoom
・Skype

上3種あたりが中心となっています。ご利用になりたいアプリをご指定ください。
また、使い方がわからない場合はゼロからご説明いたします。
ご遠慮なくおっしゃってください。


【ご予約】

maakiitoo.pl@gmail.com

ご希望の日時とご連絡先を明記の上、ご連絡くださいませ。






勢いで初めたオンラインレッスンですが、ありがたいことに少しずつお問い合わせをいただき、何名かの方にレッスンさせていただいております。

これまで小さなグループや企業さんへのレッスンなど少人数に対してはしたことがありましたが、完全に個人へのプライベートのレッスンは初めてでした。


やってみて感じた、プライベートのレッスンのいいところがいくつかあります。

何と言っても雑談しながらレッスンできることです(笑)。
最近のことを色々お話しながら、ご要望を色々伺いながらレッスンできること、もっときつめがいいのか、ゆったりめがいいのか、その方に合わせたペースでメニューが組めることはプライベートならではだと思います。

逆に、お客様の方からも、これはここに効く、これはあんまり何も感じないなど、やる運動やポーズによってその場で効果や感想を言っていただくことも多いので、それによって内容を変えていけることがメリットだと思います。

籠城により人恋しさマックスなので、むしろ積極的に話しにいってる気がして、いかんいかんと戒めています。


そして、オンラインレッスンだからこそ!PCを使っているからこそ!

スクリーンショットを使って身体の状態を指摘できるという発見。
やはり、鏡では見えない部分を指摘することができるので、より身体の使い方の幅が広がるかと思います。

それから、レッスン後にはすぐに内容のフィードバックをお送りしています。
これはほぼ私の備忘録のようなものですが…


通信手段ですが、LINE、zoom、Skypeどれも試しました。
しかし、そんなに大きな違いはないかと。zoomが多少画質が綺麗なようです。

それより、時間帯によって使用者が多く回線が混むことで、通信が少し途切れたりコマ送りになることもあるようです。
でも、その辺はプライベートですから、足りない部分は説明を追加したり、あとで動画を送りなおしたり、補う方法もとっています。


手段としてはまだまだ試行錯誤の段階ではありますが、この部分をほぐしたい、伸ばしたい、鍛えたいというご要望にはしっかり応えるメニューはいくらでも組んでいけるので、変わらず目の前の方の身体を動かすぞ!という気合いで続けてみたいと思います。

オンライン決済のためにウェブサイトを作りかけましたが、Square(スクエア)でオンライン決済は対応できそうです。
なので、現状報告がてらお知らせということで、サイトは断念しました(笑)。


あとは、リモートワーク中の会社で、オンラインで会議をしているのであれば、そこにお邪魔してレッスンもできるな、と思っています。
プライベートほど密な内容ではないですが、着席でできる内容も組めますし、みなさんで運動不足解消に一緒に身体を動かすのはいかがでしょう?
とはいえ、私の投稿を見てる方にリモートワークの方は多くない気も…シェアしていただけるのであれば、ぜひともよろしくおねがいたします。

もちろん、プライベートレッスンもまだまだご対応できます!
お気軽にご連絡いただければと思います。
何卒、よろしくお願いいたします!


2019年12月5日木曜日

言葉と身体

PISA調査 読解力低下に歯止めかけたい : 社説 : 読売新聞オンライン
https://www.yomiuri.co.jp/editorial/20191203-OYT1T50294/



昼にテレビを見ていたら、子どもの読解力や文章作成力の低下がニュースになっていた。

日本語が正しく使えない。
例えば主語述語がない、助詞がおかしい、長文を読点なしの一文で書く、就活の書類に絵文字等。
笑い話のように扱っていたけれど、とても深刻な問題だと思う。


ここ数年、大学生に対して行なっている授業では、ヨガの授業ではあるものの、最終課題は自分のことを文章で伝える課題を出している。

もちろん、その課題を出すからには、それ相当に自分と向き合うための時間を授業でみっちり取り入れてから取り組ませるのであって、闇雲に出す課題ではない。
自分の授業では、何をどう感じて、それをどう伝えるかを身体を通して考えることをずっとテーマにしている。


先のニュースの話、解決策に決定的なものは示されることはなかった。
こうなったのは、大人の責任である。より活字や文章に触れる機会を持たせる必要がある、とは言っていたものの、具体的ではないと思った。

こんなにも情報に溢れた社会の中で、活字に触れないことは少ない。
むしろ、言葉に囲まれた環境の中で、本当に必要な能力はなんだろうかと考える。





大学院で哲学の本を読んでいた頃、日本語なのに意味がわからないという経験を散々した。
文字を追って目を動かしているのに、意味が全く入ってこない。
それはもう、外国の言葉を読んでいるかのような絶望感で、何度も読み返すけれど、それでも何が書いてあるのかわからなかった。

それでも、自分の興味を引くような言葉や、私の感覚に近いのではないかと感じる言葉はいくつかあって、
それをとっかかりにイメージしてみたりした。

そうやって自分の都合のいいように解釈した言葉を、ダンスの作品制作を指導してくださっていた勅使川原さんにふと漏らすと、それは自分の言葉ではないから使ってはダメだと叱責される。

作品制作の苦悩もさることながら、自分の言葉ってなんだろうと頭を悩ませた。





本をたくさん読んできたわけではないけれど、言葉に対する執着は、昔からどちらかというとあった方だと思う。
すぐ難しい言葉使うよねと、高校生の頃にいじられていた気がする。今思うと不思議だけれども。


例えば、「見る」と「観る」。
音は一緒だし、どちらを使ったとしても意味は通じる。
でも、「一見する」と「観賞する」ではニュアンスが違うように、「見る」と「観る」の状態の違いはある。

どれくらいの興味を持って、どれくらいの熱量で、それをどれくらい知っているかも違うと思うし、好意的なのか悪意的なのかも、ただ「みる」だけでも大きな違いがある。


だからこそ、「見る」と「観る」それぞれそれを選んだであろう、その人のイメージの違いも少し想像する。
たまに、ただ難しい言葉を使いたい虚栄心だけが見え隠れする人もいるけれど。





文章力の低下が学力の問題とすり替えられてしまいそうな昨今の学習環境は、もしかしたら問題をさらにややこしくさせるのではないかと思う。

結局のところ、難しい言葉を使いこなせることが重要なわけではないと思うのだ。

自分の感じていることや考えていることを、的確に言葉にして表し、それを人と共有し、同じように考えを持つ他人と意見を交わし、尊重しあうことが大切なのだと思う。


的確に言葉で表すことができる力ということは、自分の状態を客観的に示すということとも等しいと思う。
その能力は、年齢を重ね、経験を積むことで養われる。

同時に、その力は、情報の嘘や、言葉の裏に隠された意味をも想像させる力にもつながる。
なぜなら、自分も同じように言葉を選ぶ経験をしていれば、どうしてその言葉で表されたのか、想像がつく。

幼い子供は自分の考えていることを次々に言葉にして、どうしたら大人に伝わるか経験していく中で、言葉の選択肢や豊かさを体得していく。
だから、幼い子供は言葉を知ることと経験が大切なのだ。使えることが重要なわけでは、まだない。





ただ、もういい大人になっている学生にはちゃんと書かせる。

学生に自由記述の課題を出すときに、特に念を入れて説明をすることは、
自分の感じていることを表すのに相応しい言葉を丁寧に選んで書いてください、ということ。

そのための下敷きとなる授業では、ヨガという教材を使って自分の身体と向き合う中で、今自分が何を感じ、何を考えているのかと何度も問いかけるようにしている。

ただ、素敵なことや偉いこと、誰かに褒められることを考える必要は全くないとも伝える。
むしろ、眠くても、ムカついても、自分のことが嫌いでも、やる気がなくても、全てが嫌になっていても、それでもいい。
そう考えている今の身体が大切だと思うから、それを何か無理やり方向付ける必要もないし、こうあらなければならないということもない。

そんなことを何度も何度も説明している。
そういうことを学ぶために、ヨガはわざわざ痛かったりきつかったりするポーズを取るとさえ思っている。

そうすると、最終課題では、なんとも読む方の心を動かす文章を書いてくれる学生が何人かいるものだ。
しっかりと、自分の実感に基づいて言葉を選ぼうとしてくれている。





最近では、少しずつ普段の大人のレッスンでも本性を表し始めた私は、
学生にやっているようなことをこっそり織り交ぜてレッスンしている。

ヨガはじめ、フィットネスプログラムとしてレッスンを提供している身としては、本当は、全力で健康な身体を作るための手助けにならなければならないのだけれども。

何を感じ、何を考えているか、自分自身と向き合うように仕向けているレッスンは、
きっといつか、自分の表現にとって大切なことになるような気がしている。




来年はこのことについて論文書いてみようかな。教育学で書かなきゃならんぽいし。
(改行で都合よく間を取っていれば勢いで書けるのにね。)

2019年10月17日木曜日

パフォーマンスキッズトーキョー@新島を終えて、感性教育とアーティストについて

パフォーマンスキッズトーキョーという企画に参加させてもらうということで、ここしばらく新島に行っていた。

この企画は、東京都内の小学校にアーティスト/ダンサーを派遣して、学芸会や運動会で発表するダンス作品を一緒に創作するというもの。
今回私は、いがちゃんの新島行きのアシスタントとしてご指名を賜り、二つ返事でほいほい着いて行った。


毎週同じ場所で仕事をすることが多い私にとっては、こんな素敵なお出かけ仕事はボーナスと行っても過言ではない。


「仕事で来てるんだからね」と事あるごとに釘を刺してくれるプロデューサーの髙樹さんの勧めでシュノーケルを買って初めて海で浮かんでみたり、リサーチと称していがちゃんとレンタサイクルで島内を爆走したり、事あるごとに3人で写真を撮りまくったり、それはそれは新島をエンジョイしましたとさ。







いや、今回の使命は、小学校での運動会において、5,6年生20名と20分のダンス作品を創ること。


制作の期間としては1ヶ月、先生方やいがちゃんが準備したのはそれ以上になるけれど、実質子供達とクリエーションや練習ができるのはたった20時間ほど。


正直、今自分が20分の作品を作るとしても、稽古だけでも1〜2ヶ月は取ると思う。
それをたった20時間で。なかなかどうして。

そして何より今回は、運動会の予定日が台風襲来とばっちり重なるという、呪い。いや、不運。

思い通りにいかなかったことも、思い通りにいったことも、そして思い通りの何倍も子供たちが素晴らしかったことも、色々あるけれど、
改めて、色々な人たちから、表現や芸術のことや、教育のことについてたくさん学ばせてもらった素敵な機会だった。


全てのことを書き出しているとものすごい量になるので、かいつまんで備忘録。


少し偏った話になるかもしれないけれど。

私自身ここ最近論文を書いたりするにあたって、「感性教育」というものにとても興味があるので、その辺りを中心に。


今はまだそれを十分にまとめられるほどのものはないけれど、きっとこれから感性教育のことを考えるときは、今回の経験を何度も思い出すんだろうなと思うから。







自分が小学校の5,6年生のとき、何を考えていただろう。
思い出そうとしても、覚えていることはそう多くない。


その当時に、例えば「アーティスト」と呼ばれる人に出会っていたら。
自分はどんな気持ちになっていただろうとか、何か変わっていたかな、と考える。



今回私たちの立場は、子供たちと先生の間にいる、アーティスト、表現を教える専門家というものだった。
ということをしっかり自覚したのは後半になってからだったが(ほんと意識低くて申し訳ない)、普段子供たちにバレエを教える先生というのも経験しているからか、それとも違う何かを求められていることはなんとなく感じていた。



いがちゃんが「やってみよう」ということに対し、初めは難色を示す子たちも多かった。


当たり前だ、突然やってきたよくわからんテンション高いやつらがよくわからんことして、いいね!とか言ってるんだから、何が正解かなんてわかりにくい。



結局、何が、いいね!なのか。
戻ってくるのはいつも、ダンスってなんなんだってことになる。



表現としての身体の動きは、それそのものが何かの意味を明確に示す記号としては不十分、というか抽象的すぎる。
もっと砕けた言い方をすれば、ダンスでの身体の動きって、それ自体意味のわからないものも多い。


だったら、何を表現して、見てる人に何を伝えられるのかといえば、
ダンサーがどういう気持ちで踊っているのかが見ている人の身体にふわーっと伝わったり、ダンサー自身が自分の気持ちを信じる強さが見てる人を巻き込んだりするものなんだと思う。


これが、今のところの、自分がダンスをやってきて考えた答えなんだろうと思った。
…なんてかっこよく言ってみたけど、
ダンスってなんなんだ(怒)!とモヤモヤ路頭に迷っていた大学生の頃の自分に、今の自分が教えてあげられるとしたら、そういうことなのかなと思った。



子供たちは、慣れない表現のダンスをやってみて、
楽しかったという気持ちも、難しかったという気持ちも、なんか嫌だなという気持ちも、恥ずかしいという気持ちも、思い通りにいかなかったという気持ちも、すっきりしたという気持ちも、色々あると思う。


そして、それのどれも全て、間違ってないと思う、心からそう思えるのなら。



教えてあげたい、なんていうと大げさだけど、お勧めしたいことは、
自分の感覚に誠実でいるべきということ。
自分が何を感じて、何を考えるのかということに自信を持って欲しい。
そして、それを支えてあげられるようになりたい。


今はまだ、自分の感覚を的確に感じたり、伝えられないかもしれない。
もしかしたら、水面に浮かんで消える泡のように、忘れてしまうかもしれない。
それでもいい。
なぜなら、その気持ちの泡は記憶の襞に留まり折り重なって、いつかその人の個性になっていくと思うから。


表現作品は、それがゴールではない。
これまでの常識を疑い、もしかしたら壊れてしまった自分と向き合いながら、それでもまた考えて行動するきっかけになるんだと思う。
それは、作り手にとっても、観客にとっても。


自分が作品の一部となり踊る高揚感や自身の存在の小ささに絶望すること、圧倒的な作品に出会ってしまいどうしようもなく心動かされること、
それら非日常の崇高さは麻薬のようで、それを求めてまた生きてみようとさえ思える。



決して、美しいものだけがアートではない。
もちろん、綺麗で美しいものへの憧れが人を動かすこともある。


でもそれと同じくらい、怒りや悲しみ、悔しさ、切なさ、苦しさからもアートが生まれる。
アーティストはコンプレックスを燃料にして自分を発火しているから、表現をつづけられるんだとも思う。



Artの語源は、「技術」。
私は、アーティストとは、作品を創る技術もさることながら、「生きる技術」を持っている人だと思う。
自分の心と身体に正直すぎて、もしかしたら、社会とは折り合いがつかなくなっちゃってるかもしれないけれど、
その人自身の幸福を追い求めれられる人だと思う。







話がだいぶ壮大になってしまったけど、結論から言えば、新島の全部が超楽しかった。
書ききれない。


運動会も最高に楽しかった。
あんなに運動会て笑えるんだなと思った。笑


出会った子供たちや先生方、島の方々はみんなとても優しい。
仲良くしてくれて、本当にありがとうございました。


そして自分のやってきたことを少しでも還元する機会をもらえたこと。
そういうチャンスをくれた髙樹さんと、作品を作ってくれたいがちゃんに感謝。



運動会をやってる最中に少しだけ、宿のお母さんと立ち話をしていた。


遠くから聞こえる運動会の賑やかな音楽や歓声と、それよりも手前に聞こえる虫の声。
音ってこんなに遠くから優しく聞こえるんだなと、自然の豊かさとはこういうことかと思った。



コンクリートジャングルでイヤホン突っ込んでこれを書きながら、新島が恋しいと思う。

2019年9月11日水曜日

夏の終わりと秋の始まり、残暑

9月になった。

無事に9月が来た。

頭を悩ませていた論文を書き終わった。
長かった。

文章を考えることは嫌いではないけれど、
そんな程度で論文を書こうと思うのはなかなか大変で、正直「やめようかな」と何度も思った。

でも今書き記すことで、いつか、何かの役に立つんじゃないかと、願っている。





それにしても、こんなに、自分がヨガを面白く思うようになるとは想像してなかった。
教えるという仕事も。

ダンスをやってる身からすれば、ヨガのインストラクターって逃げ道のように思われることもあると思うし、実際自分もそう思っていた。

始めた頃は、自分の考えていることや、やっていることの理解者を増やしたいとか、自分が踊る時のお客さんが増えたらいいなとか、そんなつもりで考えていた。
何より生活を立てなければならないという理由も。


今ではそれ以上に、ヨガやダンスや運動を教えることの面白さも感じている。

特にヨガは、人の心と身体に介入する技術の面白さがある。
それは、自分が踊ってみせることと、重なる部分もあるし、違う種類の関わり方でもあると思う。





論文書き終わって行った整体の先生に、
催眠術の勉強してみたら面白いかも、と提案してもらって、本を買ってみた。

対人での施術者のあり方とか、言葉の誘導の仕方とか、集中力の持続のさせ方とか、かなり面白い。

思い返せば、日常にも催眠術的なコミュニケーションはありふれている。
それを意図的に、目的に沿って使用するのが催眠術なのかな、とか。

催眠術は、無い物を起こすわけではなく、潜在意識を引き出す。
その点では、思い込みでがんじがらめになった身体をほぐすヨガや運動の指導にはとても役に立つ。


自分のレッスンの時の言葉遣いにも、ここ最近気を配ってやってみている。

身体の多様性を広く肯定する言い回し、つまり、
ポーズが完璧にできなくても、個々人がちょうど良い形を見つけられるように促す言い回しと、自分の狙いに誘い込む言い回しのギャップは、なかなかスリルがある。

シャバーサナ(ヨガの最後のリラックスタイム)はかなり精度が上がったとは思う。





毎月やっている、大人初心者向けたバレエの振付。
今月は、シベリウスのヴァイオリン協奏曲の編曲に振付をしてみた。

作りながら、私がバレエを教える意味って何だろうなぁとか、考えた。考える。いや、毎月思う。


正直、私はクラシックバレエをプロでやっていたわけではないし、教えるには分不相応かもしれない。
正しいことを教えられているかどうか、不安なこともちょっとある。

でも、正しいことって何だろうと考えると、ある程度の形式はあっても、絶対はない。


だとしたら…もっと根っこの、衝動的な部分だったら、どうだろうか。

私は踊ることはずっとしてきたし、踊っていて幸せだと感じる瞬間を何度も体験してきた。

それならば、私が教えられるのは、その、踊っていて幸せだと感じられる瞬間のことなんじゃないのかなーとか、ぼんやりと思う。

音楽と自分の動きや、人や場所の作る空間と自分の動きがバチっとハマった瞬間に、鳥肌の立つゾクゾクするあの感じ。

陶酔とか、溶けるとか、自分の身体を超えていく感じ。

あれは、踊っていないと感じられない瞬間。


スキルや厳格な形式にはめ込んだ身体の快感もあるし、それはそれで追い求める形がある。
特にバレエには。

その看板は、小さいながら掲げさせてもらうとしても、私は何を教えて、何を共有したいのか?

それが実現できたら、ジャンルや形式を超えて、オリジナルになれるのかなと思う。




今月の28日に、掛川で踊らせてもらえる機会がある。

ゆるアコの金井さんとさあやちゃんと一緒に。
ギターと、リコーダーと、鍵盤ハーモニカと、歌の生演奏と共に。
なんという贅沢。


2人の作る空気感というか、イメージや即興性はとても柔軟で、聴く人の心を丁寧に掴む。
音楽に弾かされているわけではなく、音楽という方法で、自分たちを表現する技術がある。

その証拠に、こんなにも踊りやすいのかと思うし、どんどんイメージが膨らんできて楽しい。


音楽と、見る人の、間を繋ぐ存在になれればと思う。
2人の音楽を聴いて、どうしようもなく身体が動いてしまう衝動を、そのまま動きにしたい。

私も丁寧に、踊れるようになりたい。


追伸、だいぶ地元だからさ、
もし機会があえば、いろんな人に見てもらえたら嬉しい。
詳細はまたお知らせするつもりです。


しばらく書き溜めていたものを繋げたら長くなってしまった。
お付き合いありがとうございます。