2017年1月30日月曜日

期末課題

今年も、学生のレポートを読む時期がきた。

自分の授業内容がとれくらい学生に届いたのか、私自身が振り返る時期でもある。

担当しているのは、一般教養の、体育の中の選択科目、ヨガの授業。
もちろん授業は実技でヨガのレッスンをしているが、最終レポートを提出してもらうようにしている。

実技としてヨガに達成度や順位がつけられないということもあるけれど、
自分の身体で起きたことをきちんと言葉に表す機会になればいいと思い、毎年レポート課題にしている。


課題の内容は、単純に「ヨガの授業を通して感じたこと」を2000字以上。
毎年一緒。

自分の身体で起きたこと、感じたことを言葉にするのは、得意な人の方が少ないと思う。
それでも敢えて、かっこ悪くても、言葉にしてみる機会を。それを受け止める機会を。
書くことに意味がある、そういう課題にしたい。
何を書いても構わないけれど、一言だけでもいいから身体の実感と言葉が結びつきますように。


言葉は便利だ。
便利すぎて、揺れる感覚をも一緒くたに塗りつぶしてしまう。固めて置き換えてしまう。
言葉は伝えるために使うもの。
だからこそ自分の感覚を何か自分のものでないものに暴力的に当てはめてしまうことも、少なからずあると思う。

私はそのことを、学生に伝えたい。
うまく伝えきれてはいないだろうけれど、言い続けている。

身体は世界との接続だから。
見失わないでいてほしい。
身体の感覚に正直で、あってほしい。


さらに今年は事前の説明で、
「人に読んでもらうということを意識しなさい」と重々伝えてみた。

当たり前すぎることなんだけれども単純なこと、てにをはに気をつける、誤字脱字に気をつける、間違いがないかふさわしい言葉遣いか何度も読み直して推敲すること。
雑に書いた文章は、絶対にそういうところでばれる。雰囲気として伝わってしまう。
そして、読む気が失せる。
だから、礼儀としてまず体裁は整えるべきだ。
誠意であり、思いやりでもある。

きっと、大切なことだと思うから。


さて、締め切りの時刻が過ぎた。
読み始めるか!

2017年1月6日金曜日

稽古初め

歩き方を変えようと思って、取り組んでいる。

もともと脚の外に外に筋肉がついてしまっていたのだけれど、
しばらく前からまずは内側に重心がかかるように変えて、太腿は正面から見てだいぶ細くなってきた。


しかし膝下はなかなか変わらない…

つい最近初めて行ったリフレクソロジーの人に、前脛の筋肉が伸び過ぎていると言われた。
大発見!

どうやらつま先を持ち上げる筋肉が弱いらしく、それはつまり歩くときに最後の指先での踏み出しが弱いようだ。

自分では相当気を遣って足裏を使って歩いているつもりだったけれど、
そもそもそれが正解に近いかどうかはなかなかわかりづらい。
とくに、痛みがないものは本当に難しい…
腰痛を治すための腹筋をつけるのはその点分かり易かった。

とりあえず矯正道具も使いながら、
親指と人差し指で地面を蹴り出す感覚を使えるように直している。

親指と人差し指がしっかり使えると、歩いているときに脚の軸のようなものがものすごくはっきりわかる。というか、棒が入っているような感覚になる。



最近日舞を習っているので、新しい発見がたくさんある。

驚くべきは、動きの種類としては一切新しいものはなく、これまであるもの、当たり前の動き、そのやり方が違うのだ。

例えば重力。

これまで自分で踊っていても重さを意識するところまでだったけれど、日舞は重力を利用する。重力に乗る。重力に抗う。
すごくおもしろい。

重力の発見!

私はさ、究極は、
片腕を持ち上げるだけで空間をぐわんと動かして歪ませるようなダンスが踊りたいんだよね。



2月にお世話になっているサントリーホールのブルーローズでうちうちコンサートがあって、そこで久しぶりに踊ろうと思っています。

うちうちとはいえ、お客さんものすごくたくさんだしスタインウェイで生演奏つけてもらえるし。

上原ひろみの曲で踊ろうと思っています。

楽しみだー!

2016年12月28日水曜日

2016年は、

私のバレエクラスのお客さんから、

「先生のレッスンに出てはじめて、ダンスが楽しいって、身体使って表現することが楽しいって知りました」

というお言葉を頂いて、
本当に嬉しかった。


私が伝えられるのは、

音が鳴った瞬間、
照明が当たった瞬間、
お客さんの視界に自分がはまった瞬間、

頭の中が一瞬吹っ飛ぶみたいにギアが入って、
ちょっとだけ自分の身体じゃないみたいな感覚になることが、

楽しいということ。



たまにふと思い出すことがある。

学部の卒論と、修士行くときの研究課題はたしか

「身体がメディアになる」

身体が、人と人をつなぐ何か、中間物のようなものになるという考えだったと思う。

それにしてもあのときは全てが"なんとなく"で組み立てられていた。
数少ない手持ちの積木を土台にして、一生懸命お城を組み立てようとしていた。
抽象的なものはカッコイイもんね。


しばらく時間が経って改めて考えてみると、

身体や身体表現が物理的に何かと何かをつなぐようになる
というより、

人間が身体というものを共通して持つからこそ、共有し得る感覚がある

という方が近いと思い至った。

はたからみたら、そこにそんなに違いはないだろうか…
私的には、世界の色が変わるくらいの発見だ。



"私の身体が私だけのものじゃなくなった" 経験が、
きっかけだと思う。


自分の身体、ひいては命が、
自分のためにだけあるわけではないということ、

それは時に、他人のために

"他人のために在る身体"

べつに自分のために在る身体をなくしてしまったわけではないけれど、

最近、私と私の身体がちょっとだけ切り離されたかんじ。

とくに今年は、そんなことを感じた。


来年はもう少し攻めて行きたいと思っています。



なんか久しぶりに書いたら、テンションの低い文章になっちゃった。
来年はもっと文章も書こう!

本年もありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
良いお年を〜!

2016年12月2日金曜日

12月!!

気がついたらすっかり冷える時期になってしまいました。

6月に立教大学で発表した新作「私信」という作品の記録映像をYouTubeにアップしました。


https://youtu.be/xG4lQyQDgWE


この作品を通して、
「伝える」という確かな感覚を掴みかけている気がします。

作品の上演途中、
自分の創り出した閑かさが本当に透き通っていてきれいだった。

残念ながら場の空気の密度みたいなものは収められていなくて、
相変わらず映像としては非常に分かりづらいのですが…

ぜひご覧ください!





先日。
新規で仕事を増やしてみようかと思って受けたフリーインストラクターのオーディションがあり、
来春からの採用ということでひとまず合格をいただきました。

曲げられなかった自分の信念や思考が、だんだん受け入れられるようになってきた気がする。
なんでしょう?
私は丸くなったのかしら。

だけど仕事を、自分のためでなく、人のためにやるべきだと30歳になる前にやっと、やっと気づいた!


新しい作品の公演、次はいつ?と訊かれることが増えた。
訊かれるたびに泣きそうだ。

仕事とは、こういうことなのではないでしょうか。
10年前の私へ。

2016年10月27日木曜日

楽しいこと

朝井リョウの『何者』を読みました、
ご本人がしゃべっているのをラジオで聴きまして。


どことなくイタイ言葉運びに最初はいらっとして薄っぺらーと思っていたけれど、
なんとなーく、
「いやいや、これで終わりではないでしょ?」
と思わせるものがあって次を読んでしまう。

気がついたら飲み込まれてた。

何にも解決しないし、何にも幸せにならないし、なんならむしろ後退するくらいの内容なのに、興奮した。

「うおー、読んだ!」という満足感。
楽しかった!


そういえば、最近観た月刊根本宗子の『夢と希望の先』も面白かったんだよね。


心情の揺らぎ、それ自体なかったものになりそうなくらい当たり前で消えてゆくもの。
そういったものを愚直に表現しているものは、よい。
謙虚さは、品になる。


さて、
引越しの片付けの続きを。

2016年7月25日月曜日

[私信]の発表と、そのあとのこと

すっかり夏めいてきましたね!

日々のことに追われているうちに、どんどん時間がすぎてしまった!


ブログをね、
書こう書こうとおもっているうちに…

今回もたくさん素敵な写真撮ってもらったので、作品のことと一緒に載せておきたいと思います。



***



さて、さる6/25~26、

アントナン・アルトー生誕120周年記念企画「抵抗と再生-A・アルトーの映像と身体-」が立教大学にて開催されました。

卒業生として、新しい作品「私信」を発表させていただきました。


観客のみなさま、サポート頂いた関係者のみなさま、
応援いただいたみなさまに、ふかく感謝いたします。

ありがとうございました!




[私信]は、2つのシーンから成る15分弱のソロ小品です。



©Jun Takeuchi



今回の企画はアルトーの文章からテーマを決めて作品制作というお題が出されていました。



私は『神経の秤』という文章から、"私信"と題された部分をモチーフに作品としました。



その文章を舞台化するというより、アルトーの文章の持つ雰囲気と表現そのものを自分のダンスという方法で形にすることとしました。













©Jun Takeuchi
制作を始めたのは、
まだ[サイト]の興奮冷めやらぬころ。


[サイト]をやったことにより掴むことのできた、
観客の身体を惹きつける/自分の身体と結びつけている感覚を生かしつつ、

張り詰めることによって失われていた緩急をつけることを動きのテーマとしました。





©Jun Takeuchi











©Jun Takeuchi


「力を抜いて、頑張りすぎるのをやめて少しふざけてみよう。」
と思って作り始めました。


崩れ落ちる瞬間、
ぎりぎりのところ、

あとは、ちょっとだけ人間になってみること。


   



©Jun Takeuchi




ロフト、かなり広いんです。

そこに、ポツンと自分ひとり。









遠くの客席では、たくさんの人たちが息をひそめてこちらを見ている、

のかもしれない。


まだ見えない。





身体が動いている感覚を、感じる。
きっかけは、些細な。


あれもこれも欲張らず、見栄を張らず、いま持ち合わせているものを丁寧にさらけ出すように。
これでいい?って自分の身体に訊ねつづける、
そうすることで動きがすべりだしていく。


力まずに軽く、ときにヘラヘラ、だけどスマートに。


©Jun Takeuchi






作品の途中で一曲目が終わって、
舞台前方から後方へ振り返り、ゆっくり歩いていく。

観客の集中力を、そのまま引き連れて背負っている感覚。










©Jun Takeuchi


たしかに自分がきちんと自分の身体でその集中力を受け止めている感覚になれたとき、

鎮まる客席がクリアーに、


見えた。






©Jun Takeuchi




これは[サイト]でも得られた感覚だったけれど、狭い場所だからこそ得られる空間全体の感覚そのものだった。

客席と自分が30メートルくらい離れるロフトでは、そのつながりはもっと線のようだった。







届いている、とも違う。共有している、もしくは同時に在るという感覚に近い。

まだ完璧ではないけれど、やっとこのロフトの空間を埋めるきっかけをつかめるようになったんだな、なんて思った。




©Jun Takeuchi
アフタートークでは、

宇野先生に「見たことのない曲線がいっぱい生まれていた」と言っていただき、嬉しかったです。


自分の動く感覚としては、[サイト]の時よりもね、身体の中がすごく熱くなるの。

たぶん、より体幹に近い部分で動けているってことなんだろうけど、動き終わったあとの身体の温まり方が違うのと汗がひかないっていうね。



まだはっきりとはしていないんだけれど、

自分の追い求めるものがある気がして、少しづつそこへ向かっているような気がするのです。


なにもないところに、なにかをつくりだすことのおもしろさを、もっと。





***



さて、

年明けからの久しぶりの本番続きがひと段落して、暑さにかまけてぼーっとしています。

いろいろ、次のことの準備をしながらの最近。


そうそう、
趣味で日舞を始めました。


長くなってしまったので、最近のことはまたこんど!

2016年6月19日日曜日

新しい作品、[私信] のこと



来週の土曜日、25日に立教大学の新座キャンパスで新しい作品を発表することになりました。

タイトルは「私信」。
15分くらいの小品です。

今回の作品は私としては珍しく、テーマが決められている上での創作です。

まー新座遠いし、上演後に2時間近いトークにも出なきゃいけないくて(泣きそう)、
あんまり全力で宣伝してなかったのですが、
本番が近付くにつれ作品が大変面白くなってまいりまして、出遅れましたが全力でお誘いしたい所存です。

制作のためにまとめていたテキスト、ぶつ切りですが載せてみます。
[サイト]終了から一か月間の、制作記録です。



  * アルトーさん生誕120周年

さて、立教大学現代心理学部が主催するアントナン・アルトーさんの生誕記念のシンポジウムで踊らせていただけるということで、
アルトーさんに関する小品を一つ作って上演することになりました。

アントナン・アルトーは、フランスの演劇人であり詩人。
独自の演劇論ならびに身体論はまったく色あせることなく今日に至るまで多くの人を魅了しつづけ、身体をめぐる哲学や様々な芸術表現に大いなる影響を及ぼしています。

アルトーさんの数多くの著書、その中でも『神経の秤』という最重要テキストから、
「私信」をテーマにソロダンス作品を作ることにしました。



  * 『神経の秤』から、「私信」

アルトーさんの言葉は、ものすごくカッコイイです。
カッコイイが故、少し難解でもあります。学生の頃はちょっと苦手でした。

『神経の秤』に関しても、読み始めは同じような印象でした。

ただ、『神経の秤』の終盤に書かれている「私信」とタイトルのついた部分を読んでガラッと印象が変わりました。


「おれがいかに率直にお前に語りかけているかわかってくれるだろう。おれがおまえに言ったことはすべて、おれが今おまえに対して抱いていて、さらにいつまでもかわらずにもちつづける強い愛情、根だやしにできぬ感情とはまったくなんの関係もない、とおまえは見事に洞察して頭のいいところを示すだろう。だが、そんな感情は人生の平凡な流れとはなんの関係もないのだ。そして、人生を生きねばならぬ。あまりにも多くのものがおれをおまえに結びつけていて、おれはおまえに離別を求めることはできぬ。おれはただおまえに、おれたちの関係を変化させてみよう、おれたちがそれぞれ別の人生を作ってみようと求めるだけだ。別々の人生を歩んでみたところで、おれたちが離反することはあるまい。」(138頁)


この部分だけ抜粋してもギャップがうまく伝わらないのですが、
限界を見極めて境界線上をなぞっていくような最高に尖った言葉でつづられる文章のなか、「人生を生きねばならぬ」という一言に救われました。
非常に生々しくて人間くさい。

この一言から、文章ががらりと鮮やかに感じられるようになりました。



  * 動き方のヒント

以下の部分を今回のダンスの動きそのもののテーマとします。


「自分の言語が、思考とのさまざまな関係において啞然とするばかり混乱していることをだれよりも感じた男、ぼくはそんな男だ。自分のもっとも内奥な、もっとも疑うべからざる地すべりの瞬間をだれよりもよく見定めた男、ぼくはそんな男だ。まったく世のひとが夢みるように、自己の思考に迅速にもどってゆくように、ぼくはぼくの思考の中に迷いこみ、自らを失ってゆく。自己喪失の奥まった隅々を知っている男、ぼくはそんな男だ。」(130頁)


「私信」として書かれた部分はまさしく地すべりの印象で、何かが決壊して、流れ出していく様子が言葉によって描かれている。
その運動をダンスにしてみます。

無理やり動かない。いらないものを手放す。
そしてダンスなのかダンスじゃないのか微妙なラインを、綱渡りする。
ひらく、澄ます、何に集中するのか。


文章を読むときに、私が焦点をあわせる基準がある。
それは書き手の状態であり、精神であり、運動であり、流れであり、
それは地すべりを捉えるのに似ている。

おそらくそれに対応するであろうアルトーさんの言葉の中でひかれた一節は、
「魂を魅了するもの、それは明澄性、容易さ、自然味、同じ息で冷ましたり温めたりすることあまりに新鮮な物質の氷のように冷たい無邪気さ」(152頁)

「私信」の部分には、アルトーさんの、ただただ「わかってほしい!」の熱量があふれています。



  *  “私信”というものについて

アルトーさん当時の私信と、現代の私信は少し意味が違うように感じている。

私信は、今や私たちの身の回りにあふれ過ぎている。
このブログだって、私信でもある。
fbtwitterを見れば、いろんな人のいろんな言葉があふれかえっている。

完成度より、鮮度(リアルタイム)という実感。
知らなくていいことが溢れすぎている。
それから、嘘に対する異常なアレルギー。

一流の詐欺師はどこにいるのか。
夢を見させてくれる技術(art)が必要。


言葉の真実ははたしてどこにあるのか、
「私信」。




※引用はすべて
アントナン・アルトー著、栗津則雄・清水徹翻訳、『神経の秤・冥府の臍』、2007年、現代思潮新社

詳細
現代心理学部主催 アントナン・アルトー生誕120周年記念企画
「抵抗と再生―A・アルトーの映像と身体―」
http://www.rikkyo.ac.jp/sp/events/2016/06/17746/