2012年4月14日土曜日

realistic reality (?)

院の同期の友人が、モーションキャプチャーの実践研究をしている。
今日その中間発表で簡単なショーイングとモーションキャプチャーの説明等々を拝見した。

モーションキャプチャーってのは、ボディスーツみたいなのに白玉みたいなマーカーたくさん付けて、人間の動きを3Dで再現するものです。
彼はそれをリアルタイムで投影映像にすること、あと照明効果とかも使って、勿論そこで実際に動きのパフォーマンスをするダンサーもいて、という感じでした。

まだ制作途中でもあるだろうし、今日の感想は本人に直接言えばいいとして、


私自身、最近、"リアル"とか"リアリティ"というものになんとなく興味があるのです。

なんと言うか、何をそれというのか、何をそれとするのか、とか考えるとどつぼに嵌まりそうで、暗い考え事わくわくするw。
何かが嘘であってそれが悪である、などと言いたいのではなく、リアリティのある嘘にもリアリティのない嘘にもリアルが在るのです。
って、もともと次元が違うよねー、だけどそのリアリティってじゃあもともとリアルとどう擦り合わせしてんの?とかね。

リアルの反対語はない。現実や今を相対する言葉や状況って多分ないだろう。
unrealはもはや「実在しない」という意味になる(らしい)。
リアリティの反対語はある気がするけどね、例えば「リアリティがある」「リアリティがない」というダメだしはなんとなく耳にすることがある。

なんだそのダメだし?って思うけどね。
演劇が虚構と言ったのはダレだ?!
…誰もそんな事言ってないっけ?
演劇は物語、虚構を真面目にそこで実演しているのです。笑える。
(まぁ個人的には演劇は虚構という檻じゃなくて、どちらかというと関係性という足枷や手錠だったりする方が面白い。)
或る他人になりきった役者を例えば、リアリティのある演技してる、という、
いや、例え「おいどんは坂本龍馬です」って言ってもそれ本人じゃないからね、しかもたちが悪いことにやってる本人だって、「演じてる」とはさらさら思ってないでしょう?

というのはね、ダンスにフィクションってあったっけ?と思ったから、
ダンスってどこまで行っても人間が踊ってる事実・現実しかなくて、
小手先の見かけを例えば嘘と言うことが出来るかもしれないし、それこそ技術なのかもしれない。

でもね、ダンスの時間が例えば、非現実的な時間、とか言われるのですよ、
現実って何よ?笑

といっても(生活においては、つまり性格的には)フィクションだろうとノンフィクションだろうと、嘘か本当かもどっちでもよくて、どっちかに属せば良いじゃないどっちかなのでしょ?ってくらいのこと。
あの人の言葉すら、本心とか、もしくはお世辞とか上手な嘘とかそんなもんもどっちでもいい。
どちらかと言えば、ある事象が嘘か本当に属さなければならない残酷さ。

表裏一体のコインはどっちが上でもよくて、コインが在ることの方が(残酷さ込みで)愛おしいのじゃない?


だけど、
リアルとリアリティの大きな違い、でもリアリティが少なくともリアルに追随してること、しかしながらたまにリアリティがリアルを超えること、そういういろいろ。

ダンスは絶対的に現実のはずだ、リアルなリアリティなんだろうな、というしばらく前の自分の考えを、
反芻しつつ、なんだそれ、って。


ああ、超!支離滅裂。
なんだか言ってるそばから自分でも意味がわからないー

あれでしょ?ベルクソン読めってか?
難しい話はこれだから嫌なのよ。楽しいけど。


なんかこのカオス感、きたなー
まだきちんと言葉にならない、ここから。



モーションキャプチャーの話飛んだー
そっから考えてたのだが…
最近妙に引っかかる3Dの話は、省略だ。
だけど3Dがまさしく、リアルとかリアリティとか、そういうことを猛烈に考えさせられるのだよね!!

0 件のコメント:

コメントを投稿