2012年6月29日金曜日

言葉や文字、会話

言葉は好きなのです。
喋るのも、書くのも割と。
下手くそだけど。

思い返すと、私の家族の間では、変な言葉がたくさんあった。
「ありるれろ」「どどぽん」「講釈様」「ぎゃおす」 「ほげ」「がちゃぽんぷ」
父親はよく自作の変な歌を唄っていた…昔は純粋に面白がっていたけど、今思うと疑問は多い。父は割と変な人だ。
そして人を言いくるめるのが上手い。
弟は良い感じに受け継いで(?)、割と人を言いくるめるのが上手い。
私は暴力的に言葉を扱う節があると反省している。つい感情で押し切ってしまうのは悪い癖。

まったく本は読まない子供だったけど漢字は好きだったし、たくさんのイメージや情報を含んでる文字に触れるのはわくわくした。
ほんの少し、コピーライターに憧れてたときもあったの正直。

漢字の書き取りとか大好きだったし、レタリング大好物(色紙はとりあえず私に寄越せ、と思っていた。なんというわがまま)。
裏紙に筆ペンで無駄に漢字をたくさん書くのとか好きだった。
これは父の真似。

言葉っていうか、文字が好き、なのか…




今日久しぶりに友人と色々話して、言葉って便利だと思ったり、分かったつもりになってしまうのは怖いなぁと思ったり。
言葉で言葉を考えるのはとても楽しくて難しい。
何故なら言葉は直ぐに私の手を離れて独り歩きしている。

そういう言葉の魔力に惑わされない様にしないと、と最近ちょっと踏みとどまってみる。
言葉に踊らされないように、言葉を使える人にならなきゃ、とやけに思う。

お洒落な言葉を捻り出したいんじゃなくて、その言葉が相応しいのか、実感を持って使えているのかをちゃんと考えなきゃ、と遅ればせながら最近やっと思い至った。


今日の反省。

2012年6月28日木曜日

ダンスをさがす

稽古場で、鏡の前にずっと立っている。

身体のどこから動き始めるか、を考えたとき、しばらくしてその疑問が無意味であることに気づく。
身体はずっと動いているし、動き始める前に止まっているということもない、むしろ、止まっている、という状態を維持しているのだし、突っ立っていたって、微妙に揺れている重心や息をしていること、何にも“止まっている”ものはない。

さて何をどう動かせばいいのか考えて、鏡に映る自分に話してみる。
どこからか声が聞こえる、そのとき喉が震えている。

ただ立っていて、腕を持ち上げようとする。
今腕は肩の関節から外れることなく、肩からぶら下がっている状態。
腕を持ち上げてみようか。
どうして腕を持ち上げるのか。
別に理由なんてないけれど。

顔が痒い、手はその痒い部分に触れようとして動く。
ずっと腕を下ろしていて血が下がってしまったから、手を上げる。
何かを掴もうとして腕を上げる…例えば蚊が飛んでいる。


身体はヒトが生きるために、ほんとうにいろいろな機能を背負っていて、
生活するために、コミュニケーションを取るために、身体は実によく働く。それらの動きを排除してダンスを考えることは出来ない。

ダンスは身体の動きであって、身体の動きは絶え間なくいつも続いていて、その中にダンスもある。
何がダンスで何がダンスじゃないのか、を分けるのは大変難しい。
だけど踊ることは、それら生活の"ため"の身体の動きから最も離れた所に在るんだろう、あってほしい。
簡単な言葉で言えば、最も意味や意義から離れていて、つまりそれを無意味と言ってもいいが、
それよりも間違いなく、そこに在るもの、それ以上でもそれ以下でもない。
身体はまさに身体として、その運動もまさに運動として純粋なもの、
つまり不可分なく自然として、身体とその身体の動きが、在るがままに。
その様子を言葉に置き換えたら「美しさ」?、というのは余りにも安易だけど、何か人を感動させるものになるんだろうかと思ったりする。

そういう風に身体を扱えたらいいなぁ、と思う。

例えどんな振付や決まりごとがあったとしても、それ以前に身体がどう在ってどう動くかを見て感じている。
私はそういう風にダンスを見ている気がするし、それだけで十分だと思う。
意味や機能の解釈に身体が囚われて抜け出せないのは身体の、人間としての甘えだと思う。


面倒なことを色々考えすぎる、
だけど考えれば考える程答えは単純。

人間としての価値に興味が薄れてゆく程、自分の身体としての価値をどれだけ見出せるか考えてみたりする。



なんか未熟で刺々しい言葉しか繋げないのだけど、稽古しながらぼんやりと考えていたことを書いてみた。

理想はどんどん高くなって、だけど何が正解なのかも分からないけど、
とりあえずまだまだだなぁ、と思うことは確か。



2012年6月23日土曜日

身体の音楽(リズム)

例えば、
歩くとき、右脚と左脚が交互に前へ出る。
右脚と左脚しかないんだから、二本の脚を交互に前進させる。
反復。それはリズムになるかしら。

歩くリズム、
躓けば、リズムが変わる。


運動は振り子と同じ様なもので、もしくはやじろべえみたいに、一つの中心(それが何処にあるかは人次第だけど)を軸に調整してるし、運動は放出のみをしているわけではない。
回収(調整)をしている、
踏み出した一歩の為に、後脚が地面を押して重心を移動させる。
じゃなきゃ前方に放り出した脚は、自分のところに戻ってくる。
放り投げたブーメランが戻ってくる様に、身体に繋がれた身体(中心を持つ身体/有限な身体)は投げ出した後必ず戻ってくる。

その中心が背中の真ん中に在ると云う人も、お臍の下辺りに在ると云う人も。
異なる2つの身体の何処に重心があるか探って、重心の重なる位置が見つかればリフトは楽(いや、当然下の持つ人大変だと思うけど!上は楽だ)


投げ出した腕が"放出"のイメージを見せるとしたら、投げ出しと戻しのリズムを変えている。
さらには、投げ出した腕とは反対側の脚がブレ無く踏みとどまる、
見せ方の技術。
ただ腕を放り出しても、放出のイメージにはならない。


運動は円環。
必ず戻る。
クラシックバレエが顕著。形でそれを実行する。
それがずれて行くコンテンポラリーダンスは、重心(中心)と運動の±で成立する。
そして重心は必ず点ではなく、線や面の場合もある気がする。
だけど運動は必ず戻る、だって身体は有限だから。
例え1と0を綺麗に繰り返さなくても、大きく捉えれば0に戻る。

戻る、そして繰り返す。
呼吸とか、も。


昔レベルの違うダンサーたちのユニゾンの振りを作る時に気がついたこと。
形を振りつけるんじゃ無くて、運動(リズム)を振りつければ良いんじゃないか?って。
昨日ユニゾン見てたら思い出した。


だけど一つの身体の中でもそういうことはあって、
運動はリズムを作る。

逆はまだ謎だ

2012年6月20日水曜日

そろそろ

固い床に寝ても、身体がまったく痛くならない方法を発見した!!



どうでもいいか。
だけど気の持ち様で変わるんだなぁと、ちょっとヨガ的な感じだ。
床と重力のことを考えるのだ。


最近踊ってないなぁ、ということも意味が分からなくなるくらい、
ダンスのことは考えてる。


自分のダンスに、素敵な言葉を飾り立てるのは意味が無いんだと思うけど、
(つまり意味を引っ張ってくんなってこと、自分で言葉を作り出せってこと。)
だけどやっぱり自分で考える自分のダンスは、今まで私が経験してきたもの抜きには作られない。
この身体で踊る、その身体の経験以外に言葉も何も出てこないってそろそろ諦めてみる。
自ずと、自分が今までどういう風に踊ってきたか、そこから何を捨てて何を得ようとするのか、考えなきゃならん。
新しいダンスは要らないけど、自分の中で新しいものがないとね。

かといって、
身体動かしてるときに考えることとか、考えすらしなくても作動する運動とか、いちいち説明してると間に合わないんだよな、だからみんな言葉に頼らなくたって踊ってるんだし、誰も説明なんてしようとしない。(評論家は効果ばかりを言葉に置き換える。)
だけど、身体から出てくる言葉に興味はある。

そしてどう考えが転んでも、やっぱりダンスは言葉を超えるってところに行き着く。

言葉より先に身体が在ったんだから。そういうことなんだろう。。


2012年6月1日金曜日

六月

長旅から帰ってきました。
意外と死にませんでした。普通に行って、普通に帰ってきました。

帰ってきて、いろんな人と話をして、少しずつこれから何が出来るのかが分かってきます。
行っていたときよりも大分思考がクリアになってきました。

一人で行っていたので当然、現地で自分の考えを人に猛烈に話すことはあまりしていなかった分、帰ってきて会う人に話をしていると、何を考えて何を話そうとするのか、その中で自分が何を考えて過ごしていたのかが分かってきた気がします。
思うよりたくさんのものを見て、たくさんのことを経験したんだと帰ってきて実感します。

でも3週間でこれだけのことがあれば忘れることも多くて、もはや自分の日記を読み返しながら「ああ、そんなこともあったな」なんて思い出す感じ。
日記書いといてよかった。


一言で感想を言えば、楽しかったー、とか、面白かったー、という話だけど、
そんな言葉では集約できないくらい、むしろ淡々と舞台を観て日々を過ごしました。
人とわいわい過ごして楽しい、とは訳が違うのだけど。喋ってないし。喋れないし。

最後に飛行機で話しかけてきたカナダ人の兄ちゃんにはもはや、「私リスニングできないから紙に書いて!」ってコミュニケーション取ってたし。
愛想と笑顔のコミュニケーションにも限界がある。



日本で考えているよりも遥かに、ベルリンもブリュッセルも芸術がとても成熟していて、
旅行に行った人のお決まりの展開だけど、自分がぐちぐち考えていたことがすごくどうでもよくなったことと、ぐちぐち言っている周りの状況すらどうでもよくなったことと、もっと単純にやりたいことをやればいいのだなーとすっきりしました。たぶん。
すくなくとも今まで私に足踏みさせた何かが、踏みとどまるに値しない程度のものだと、分かっちゃったー


卒業できなかった傷心旅行だ!とか言っていたけど、
むしろ私のこないだの作品は我ながらやっぱいい作品だったと、ただもう少し詰めるべきところが分からなかっただけ、知らなかっただけなのねと向こうでふと思っちゃったのよね。笑

だからまた作る。踊る。
やっぱり私にとって舞台は、いつ何時も大切なものだし大好きだし、まぁ生まれてこの方そんなことしか考えてこなかったんだし、もうそれしかやることないよね。しょうがない。
稼げないんだよねーとか、そういう、捻くれてる場合でもない。

腹据えて、もっと死ぬ気で勉強しようと思った。それでどうなるか知らないけど。

とりあえず英語とか。。


さて、どうしても読みたくて買ってきた英文の学術書を読むにする。