2012年7月29日日曜日

試論 (芸術性について)

先だってベルリンで出会ったある一つの絵は、私にとってとても重要なことを思い出させてくれた。
美術館に行くのが、芸術作品を見るのがどうして好きなのかを改めて思い出させてくれた、私にとって大切な絵。
美術史や芸術批評について興味を持ち始めて久しいが、どれだけ勉強して作品を語る言葉を手に入れても、その絵を見たときに感じた言葉に出来ない感動はまさに、私が昔から確かに感じていた表現に対する興味の源泉だ。

その絵がどんな絵であるのかは、他人にとってさして重要ではない。私がその絵を"見る"ことが、私にとって重要だからだ。
その絵は、美術館に居る私を、ここではないどこかに連れていってくれる。その作品のなかにその力を、私は感じることが出来た。
ここではないどこか、それは私の記憶のなかにあるところだ。記憶によって作られる場所だ。
寝ているときに見る夢は、必ずしも今まで行ったことがある場所とは限らない。むしろ私はいつも、知らない場所に居ることの方が多い。だけど、行ったことのない、知らない場所の風景を見ることが出来る。(因みに、登場人物は知っている人が多い。もしかしたら、知らない人は覚えていないだけなのかもしれないけれど。)
「見る」とは何なのか。場所の風景を、私は見ているだけではなく、何らかの情報を身体で感じている。それは身体の体験、身体の感覚の記憶だと思うのだ。



私の思う芸術性は、意味を「理解するもの」ではなく、「身体で感じ取るもの」だ。
理解しようとするのではなく怖がらずに身体で感じ取るものを重んじるべきだと思う。言葉にならない感覚を無理やり言葉に置き換えることはない。言葉は、ときに感覚を一つの型に押し込めてしまう恐れがあるからだ。
同じ文字を使うのに言葉にはたくさんの用途があるし、本当に気をつけて使わなくてはならない…



感動というもののなかには確かに、「気づく」ことや「解る」ということがある。
自分にとって混沌とした意味不明であるものをそのまま愛せる人は少ない。それは、解ることが出来るものを知っているから、自分にとって「解ることの出来ないもの」をひとつの解釈として持っている。
「解ることの出来ないもの」を知らない人にとって、理解出来るものは好ましい。だけどこれは、誰にでも当てはまることであり、誰もが最初に経験することだ。気づき、閃き、その裂け目のような箇所から勢いよく溢れ出す想像力の広がりは、まず何にも変え難い芸術体験の一歩だと思う。
昔からその感覚が好きだった。



芸術は、突き詰めれば個人の嗜好にその良し悪しが判断される場合がある。
このときの、嗜好とは何か。それは「理解」云々を超えもっと深層にあるもの、それは記憶だ。嗜好が異なるのは、身体の記憶が人それぞれ違うからだ。文化が嗜好を決定するのなら、良し悪しの判断はもっと一律的になる。
記憶はその身体の体験を積み重ねて形成される。

芸術性は文化に起因せず、身体に起因する。
なぜならば、文化が興るより前に人は身体という個体で動き、他の個体である他人に働きかけるからだ。一つの身体が世界に働きかけることが、芸術の始まりだと思うからだ。そして、芸術や表現はいつでも、他人のなかにあるのではなく、世界にある。

芸術がときに前衛であることは、文化が芸術を作るのではなく、一つの身体が文化から逃れるから、はみ出すからだ。


**

うーん

複雑なものを、複雑なままに書けるようになりたいわ。
簡単にはしたくないし、簡単にしてしまえる私というフィルターはものすごく貧しい。
上に書いた一文ごと、一節くらいはゆうに説明しなきゃいけないはずなのに。
要約ですらないな、ただの乱暴な文章だ。まだまだだなぁ
でも書かなきゃ始まらないから、許して。

出来るだけ他人の言葉を借用したくもないし、むしろ私というフィルターすら消し去りたい。
そして複雑なものを複雑なままに。

改行って恐ろしいくらい本当にたくさんのものが抜け落ちるのです。
行間に甘えるな。

言葉が足りないわ。

2012年7月25日水曜日

さいきん

なつだ!

あのさ、どーでもいいことなんだけどさ、
ズボンのベルトってどっちから通すのが正しいの?

私ずっと、右から通してたんだよね。
端の余るとこが右に出るの。
昨日まで疑いなくそうしてたんだ。

そしたら婦人服は反対じゃない?って言われた。うおー、しまった私人生間違ってた!!と思ったんだけど、
今日、紳士服も、というか普通はみんな左からじゃない?って言われた。
どっちが正しいの?
てか、つまりみんな結構左から通すらしいんだけど、正解ってあるのか?
ぐぐれってか。はーい

てか右利きだから、左から回すとすごく楽だって気づいちゃったんだけど




最近はひたすら文献読んだり、論文書き書きしたり、自主稽古したり。
今日は文献読んで論文ちょっと書いた。

いつでも、いつまでも論文を書くのは難しいね、当たり前だけど。
昔みたいに書きたいことを書くってより、最近は考えてることをどう文章にするかにぶつかる。

というか、いろんな文献読むほどに着実に自信もなくなるし、以前は私の感覚って鋭くなーい(どや)?みたいな驕りがあった(たぶん。そして後遺症もある)けど、そういう勢いも無くなる。

同じようなことはみんな考えてる。
というか別に私が突拍子もないことを考えてるわけでもない。
みんなそんな違うことは考えてないし、なにが違うかってどういう言葉でそれを話すか、書くかにかかってるんだよね。
それでも文献読んでてちょっとでも思うことがあったりして、これ位は私言っても良いですかね?みたいな、そんな針の穴に糸を通すみたいな感覚を正確に文章にするってもう、難しすぎる。
そして私の文章はつい、無知なくせに強気だから、読み返すと萎える。つまり馬鹿丸出し。

ここに書いてるのはほんと、思いつきで超適当に書いてるから、
なんていうかそれこそ考えてることそのまんま書いて積み重ねてるだけだから、浅くてオールおっけーなんだけどね、
ああ。


一言でも、短い文章でも、世界の景色をがらりと変える、つまり知覚を揺らがせることの出来るものってやっぱりあって、
どれだけいっぱい考えても追いつけない位、いろんなイメージが溢れ出してくるような言葉ってあるんだよね。

人間ってすごいね。
最近そんなことばっかり思う。

でも文献読むの楽しい。勉強楽しい。
知らないことも分からないこともたくさんあって困るよ。

2012年7月18日水曜日

動きながら考えること

消していくより、蓄積させていくこと。
昨日考えたことを今日否定してみる、疑ってみる。

人格が崩壊しそうなんだが笑、
そうして、もっともふさわしいものを選んでみる、探してみる

****************

散らばってゆく身体、散らばっている身体。
より強く、より細かく、身体を意識/分析する中で、身体はバラバラになっていくように思える、例えていうならば。
だけどそれらはすべて、一つの身体の中で起こっていることであり、一つの集合体の身体。

より強く、より細かく身体を意識/分析していても、“意としない”何かが起こっている、もしくは起こる可能性を持っている。
散らばっているのは、運動のベクトルで、身体は一つにつながっている。身体はちぎれることがないんだよね!

統一されているから、はみ出るもの
散らばっているのは、一つだから



予想のできない動き、が欲しいなぁ、と一つ理想として、自分の映像見ながら思うのです。
一年前位から自分の映像撮っていて、たまーに、はっとするような動きとか切り返しが一瞬、あるのです。
目に見えないほど速い動きが生まれたり、謎な軌道や動きがあったり。
新しいものほど、それが少しずつ増えている。
まぁ定点の、しかも映像だから、なんとも言えないけど。

自分の身体を支配するというより、深く分析して感じてそのまま動いてみるとどうなるか。
きっと予想もつかない動きになるんじゃないのかなぁ。という予想。

そしてそれを、形として再現するんじゃなくて、そういう動きを生みだす身体の使い方を考えている。
全部がそれになる必要はない、というかはっとするのはその前後にそうではないものがあって、その一瞬の繋がりの予想不可能さが面白いのです。

所謂、自分が今までやっていたような振付の面白さに飽きたってのはある、なんというか「この振り面白いなー」ってやつ。
それより、なんというか、動きの中で偶然的に産まれる身体の不思議、目に焼き付けられる一瞬の何か、
そういうのを見たいのじゃ、私は!って私に言い聞かせている。

2012年7月14日土曜日

身体が持っているリズムとメロディー/スマートさ

身体の中にリズムとメロディーを見い出す
身体の中のリズムとメロディーを見つける
身体のリズムとメロディーを探す
身体が持っているリズムとメロディーを感じる

「身体が持っているリズムとメロディーを感じる」が今は一番しっくりくる。

リズム、戻ってくる感覚、何かがゼロになる感覚
出発点と着地点がぴったり同じとは限らない、時間は進んでしまっているから。
でも、ずれていても、ゼロになって、再び1になる。

メロディー、推移。運動している、それ。
音楽を聴いていて感じる、音の推移が“美しい”と思えること
それが誰にでもまことに美しいかどうかは考慮するまでもなく、
ただそれに感じ入り、身体がほどけて、澄んで、温かくなるもの。
身体にも、それはある。

ただし、身体において、どれがリズムでどれがメロディーであるかを決める必要はないし、あまり意味はない。
むしろ多層的に、幾層位にもそれらはあてはまる。


**************

どんな理由で身体が在ったって、動いていたって、
私にとって身体の面白さは消えることはない。
面白さとは、興味。美/醜以前、理想よりも前に。
(私は割と、人の動きを部位ごとに分割して見る傾向があると思う。)

作為的でない、純粋な動きはいつだって美しい。
職人の手さばき、荷物を運ぶ運送屋さん、料理人の姿、楽器の奏者、
道具とともに、それに見合うスマートな動きを手に入れた身体とその動きは美しい。
機械的ともいえる。

人の歩く姿。
身体の外部に道具がなくても、骨格や筋肉の成り立ちからおのずとその人にとって最もスマートで純粋な動きがそこにあるから、見ていて面白い。

人の身体の形も、時が経ち、老いてゆく。
重力に逆らわず、ありのままに変化していくのは自然であり、それも面白い。


自意識的、ないしは作為的な意味での(これ以外に今言葉が見つからない)無駄がないように、ありのままに。

その無駄って何か。
目に入れたコンタクトに違和感があって、手でそれに触れようとするとき、手は一番最短距離で目まで届く。

歩くことに無駄はない。
いつだって最短距離で、何も考えなくたって最も効率がいいように歩くことができる。
右足を出したあと、左足がそれを追いかけて右足を打ち出す、なんてのは、歩くことにとっては無駄なこと。
歩くことにとってダンスは無駄な動きなのです、
だけどそれがツーステップであるならば、ツーステップとしての無駄のない美しさを求めることになる。

“無駄である動き”にとっても、一番無駄なくスマートに動く方法がある。

2012年7月11日水曜日

今日思ったこと

美術論は昔から好きだ。
好きなんだけど、果てしない。

西欧の舞踊論について調べていると、同時代の芸術の動向も勿論関わってくるので、芋蔓式に調べるべき事が増えていって手に負えない。


イヴォンヌ・ライナーというダンサーが私の論文としてはとても重要なのだけど、これが全くと言っていいほど日本語の、日本語訳の文章が無い。
多分扱っているのは木村覚さん位だろうという結論。
院に入学する直前に読んで結構衝撃を受けた本に結局立ち返ることになった。

イヴォンヌ・ライナーはジャドソンダンスシアターを作った人で、映像作家でもある。
ベルリンで手に入れた1960年代以降のビジュアルアートとダンスの関連性を説いた本は、ライナーの理論をもとに編集されている。
くそ重いこの本を必死で持ち帰ったのは、向こうで観た作品の秘密がこの本に有ると思ったから。
この本を下敷きに、身体を扱う思想哲学をペンにしてダンスを書くのです。


ダンスがもはやダンスだけの問題として語っても意味が無いこと、ダンスはもはや大衆芸能ではなく芸術の一つの形態であること、むしろダンスの、身体の問題が今までもこれから先の芸術にとってもとても意味のあるものにあること、
つまり身体からどんどん離れていくことができるであろう未来の人間の文化や生活に対して、最初に身体の問題に気づくのはいつも芸術家だろう。
「ダンスには可能性がある」と予言したあの人は、今その先端に居る。

意味が、情報が、世界を作る中で、人間がいつまでも身体を抜け出せないのならばね。



ならばね、ってなー

最近無謀な持論を展開し過ぎて「訳がわからん」とよく言われるよ。
うーん。。


今日、セブンイレブンで見つけた苺のソース掛け練乳かき氷が美味し過ぎてやばい。
ほんとに美味しい。びっくりした。
森永練乳かき氷をすでに今シーズン15個食べた(今年はカウントしてるの)私も、これには危機感を覚えた。

森永練乳かき氷は、食べるうちに練乳が好きすぎるということに気づき、ならば練乳をダイレクトに食べれば良いという所まで来てしまっていたのだけど、
セブンのは久しぶりに練乳かき氷の美味しさを思い出した!

しかし、森永練乳かき氷は西友で87円で買える。
セブンのは137円だった。
こりゃ迷うねー。

2012年7月7日土曜日

小さいときのこと

最近、昔習っていたバレエ教室のことをよく思い出す。
私は上京するまで、佐藤典子舞踊研究所付属バレエ教室、というところに通っていた。


3歳のある日、母親につれられて見学に行ったとき、稽古着も着ずにそのまま輪に加わって、それから今まで踊りを続けることになった。
踊るのがなんで楽しかったのかはもう覚えていない。
お稽古は週に一回で教室は歩いて数分の所にあったから、嫌にならずに続けていたんだと思う。

私の一番最初の記憶はおそらくバレエ教室だ。
お稽古が始まる前に教室の掃除をみんなでするのだけど、床拭きのぞうきんで鏡を思いっきり拭いていたら祖母に止められた、というものだ。
時系列で辿れる一番古い記憶。


私の先生は佐藤典子先生という方だ。
日本における現代舞踊の黎明期を作った石井漠先生の義妹である石井小浪先生のお弟子さんである。
漠さんと欧州ツアーなどしたのち独立された小浪先生は児童舞踊に力を注いでいらっしゃた方で、佐藤先生もその意志を受け継いで出生地である静岡県磐田市で児童舞踊の教室を開かれた。


佐藤先生の教え方は、友達が通っていたような他のバレエ教室とは少し違っていた。
バレエを習っている、といえば、学校が終わって毎日お稽古があるのが普通だが、私は基本週に一回のお稽古。
静岡県西部に20位お教室があって(多分今でも)、だいたいが週に一回の稽古だった。
かつ、コンクールに出場する機会は一切無かった。というか舞踊においてコンクールがあること自体、あまり知らなかった。
だけど、踊ることに優劣はないとなぜかその時の私も分かっていたので、特に何も思わなかった。
だけどそのかわり、地元のお祭りや、国体の開会式で踊ったこともあったし、中国の芸術学校と提携公演をするために中国に連れて行ってもらったりした。


基礎としてはクラシックバレエをやるのだけど、作品はひとつのテーマによって創作されたものだった。テーマは「金魚」「不思議の国のアリス」「祭」「ふきのとう」とかそんな感じ。もっと色々あったけど…
いわゆるモダンダンス。トゥシューズをはかないバレエ、裸足でやるバレエ、というとだいたいの人が納得してくれる。
私にとって踊ることは、始めから、何かテーマを表現するためにあった。もしくはテーマそのものになりきる、というところから踊り始めた。
児童舞踊は、情操教育の一環としてある。感性豊かな子供を育成するのが目的だ。
技術を高めるということより、みんなで「このときこれはどういう気持ちで踊ればいいのか」、みたいなことを先生や他の生徒さんともよく話し合っていた気がする。
だから、ふきのとうやったときは、「私はふきのとうだ」と思いながら踊るのです。ふきのとうの気持ちを考えるわけです。ふきのとうの衣装着てね。
ふきのとうは当時の自分でも衝撃的過ぎて、衣装も音楽も振付も割と覚えている。

身体が柔らかくなくても、下手くそでも、そんなに怒られることはなかった。基礎はそりゃもちろん必要だけど、表現の技術(や見せ方)の方に重きが置かれていた。


インターネットで調べていたら、いろいろ記録が出てくるものだ。
いまや教室もHPを持ち(最初見たとき驚いた)、過去の資料や公演の情報をネットに載せている。
佐藤先生の講演会の記録とか新聞の記録とかもいろいろ載っていて、読んでみた。
遡れば当然、小浪先生のこととか、漠先生のこととかもなんとなく知りたくなってくる。
家系図を紐解いてるような気分。



帰りたい、とか、戻りたい、ということより、今ならわかるかも、と思ったのだ。
私はあそこで何を習っていたのか、なんとなく知りたい気分になったのだ。今頃になって。
だって少なくとも15年間はそのお教室で踊らせてもらって、というか私すでに22年踊っていることになるんだけど、そのうちの15年を過ごした場所について何にも知らないということに驚いた。
影響を受けていないはずが無い。

つまるところ、どれだけ新しいものや刺激的なものにたくさん触れたところで、それを知るだけで自分のものにはならない。
自分にとって新しいもの、自分の中に生まれる新しさじゃなきゃ意味がないのだと思う。

なんでもそうだけどさ。
まぁ至極当たり前のことだ。

2012年7月4日水曜日

身体(所有について、知覚/感覚)

友達にここ読んでみて、と言われて読んでみた。

『差異と隔たり 他なるものへの倫理』(熊野純彦著、岩波書店)の
第一部 所有と非所有との〈あわい〉で→第二章 身体と所有—はたらく身体と痛む身体のあいだで—

「身体を所有すること」について書かれている。ちなみに前後は読んでない。むしろ読まなくていいと言われたし、読む必要はないだろう。
身体を所有することってできるの?所有するってどういうこと?私の身体ってどこからどこまでが私のもの?みたいな。

読んだ感想を端的に言うならば、この人ぶれ過ぎ。に感じる、私は。
脆い。まさに机上。の空論、とまでは言わないが。
(多分とても部屋がきれいな人だと思うけど、結婚はしてないと思う。と思って画像調べたら結構いかついぞ…ピュアボーイだと思ったのに…)
まぁ倫理学専門の人らしいから、そう感じるのかな。


熊野氏曰く、「人間は道具を所有している。日常的にもごく自然にそう語られることができる。おなじように、道具であるかぎりでの身体もまた、他者との互換的な〈所有〉の対象とかんじられることもありうることだろう。」(31頁)

ただ、彼自身もそう簡単に言い切れるとは思っていないらしく、

「〈身体〉が〈道具〉となるかたちには、部位により、また問題となるケースにおうじて、濃淡がさまざまになっているということである。…(中略)…いまひとつには、「道具」である身体もまた、道具であることによって私から端的に隔たり—私による所有を可能にするような距離—を獲得するのではないということである。」(35-36頁)
「〈私の身体〉と〈私〉の関係はここでも奇妙に近く、不思議な形かたちで遠くなっている。身体にはたぶん、道具として記述される次元でも『不透明さopacite』(マルセル)がともない、道具としての身体もまた、とらえがたく抽象的であることに発する『異質さetrangete』(ヴァレリー)を逃れていない。」(36−37頁)

どうして不透明や異質といったどちらかというとネガティブな言葉になってしまうのか。どんづまって残尿感ありまくり。理論が袋小路に入ってしまっている。
身体が道具であるならば、そう言い切ればいいのに。むしろ言い切った方が清々しいのに、所有しているはずの身体を手に余る難敵として扱っている印象だった。


今日、本を薦めてくれた友人に、
「踊っているときに、身体を“所有している”って感覚ってある?」
と訊かれたのがそもそもの始まりだ、とても興味深い質問だと思った。

答えは、「所有しているつもりはない」だ。
そもそも、所有は人間のすることであって、身体は何も所有していない。
身体は自然なのだ、空気や水や飛んでる虫や動物や木と同じ、自然の一部である、と最近思っている。
そして人間は身体の中にある。
だけど人間は身体について考える。身体は人間については何も言わない。

熊野氏も、所有は距離を取ることのできる対象に対して使う言葉であって、その言葉が身体に当てはまるだろうか?という疑問は持っていた。
その通りだよ、と思った、身体を所有しているという考え方自体が身体を超えて人間になった思考の考えることであって、身体に起こりうる現象をすべて理解し、所有することは人間には出来ない。
まぁ倫理というフィルターがかかっているから、と思っても、この人は倫理から抜け出したいのか、抜け出したくないのか。
私の立場から言えば、身体それ自体でやっていることにおいて、例えば踊りながら、なにかを所有するという考えは浮かばない。
ついでに、人間が踊るってのは行き詰まる。身体が踊るのだ、人間になる前に自然は踊っている。



ダンスは視覚芸術だ、と以前書いた。
それは、見る対象と自分との間に距離があるということだ。つまり私がダンスを外から見る、客としてダンスを見る場合は、ダンスは視覚芸術だ。
だって目を瞑ったら、ダンスは見られない。
しかし、踊ることにおいて、ダンスは視覚芸術とは言い切れない。
なぜなら、目を瞑っても踊ることは出来る。
これ今日発見したこと。

自分の身体において、自分の目で見ることの出来ない場所はとても多い。
特に背中や首、顔の動きなんかは自分の目では見ることが出来ない。
でも、自分の背中や首や顔まで、どういう風に動いているか、踊る人は把握している。つまり視覚によって自分の動きを把握しているわけではないのだ。
じゃあ動いているのをどう把握してるか、それは感覚としてとらえている。

例えば、グーとパーの手の動き。目の前でやってもグーとパーは作れる。
その手を背中にまわしても、手をグーとパーにしていることは分かる。
動くことは、距離を持った知覚がそれを生むのではなく、感覚と対応しているのだ。
感覚を言葉に置き換えるのは難しいけれど、むしろその感覚というものを言葉にする必要はないのだけれど、感覚って例えば…筋肉が動いていることを感じるとかね。たいした言葉にならない。
むしろかっこいい感じの言葉にするしかない。「魂が身体を動かすのよっ!」とか。


私がずっと習っていたバレエ教室や大学のダンス場には、必ず鏡があった。自分の動きを自分の目で見ながら動いていた。
しかししばらく鏡の無い場所でダンス作品の稽古する期間があった。そのときは演出家が私の動きがどういう風に見えているかを伝えてくれて、そしてどういう風に直すかの指示を与える。最初は非常に困った。何をどうしてそう言われて直すべきなのかわからない。
例えば、手をまっすぐのばしたからと言って手がまっすぐ伸びている画にならないものだ、少し力を抜いたり肩をおろしたりすることでより手がまっすぐ伸びている画を作ることが出来る。
そんな感じでその稽古の間は、感覚と印象(イメージ)の擦り合わせをしていたように思う。
これは非常に有益な経験だったと思う。さらには、演出家が動きや身体の構造ではなくとにかくそのときのイメージ(結果)についてのみ指摘するので、鍛えられた。
それをしていたら、鏡が必要なくなった。よく考えれば、鏡という一瞬しか自分を捉えられないものに縋る必要はもともと無かったことに気がついた。
背中で動いている手の動きも、背中の動きもなんとなくわかるようになる。べつに、感覚とイメージが完全に一致しているとは言い切れないけれど、自分の身体が見えないことが怖くなくなる。
(ただしこれを単に、客観的視点を持った、と言ってしまうのは性急だと思う。
また、踊るにあたって踊る本人が必ず明確な(クリアな)イメージを持たなければならないとは言い切れないのだけど。)


つまり、知覚で踊っているわけではないということだ。
知覚は対象との距離を持っている。
感覚は距離がない。むしろ身体において起こることだ。
踊ることは、運動は、感覚とともにある。



話はさかのぼるけれど、
そう考えると、身体を所有するとか道具とするということが、踊ることとどれだけかけ離れているか、と思い至った。

多分一年前の私なら、「身体は踊るための道具」と言っていたと思う。
それは多分、ちがう。
身体が踊るんだ。

2012年7月3日火曜日

今後の予定っぽいこと

論文をね、
二種類書こうと思っている。

修士制作をするに当たっては、副論を付けて出せば良いのだけど、
副論よりも、短くてもきちんと調べて研究することを書いた論文と、制作の為の副論と二つに分けて書こうと思っている。

というのは、ダンスを研究対象とするか、ダンスを踊る対象とするのか、その間には余りにも大きな隔たりがあるから。外側から書くか、内側から書くか。
ふたつ一緒に上手に書くのは無理と判断した。


短い研究論分には、舞踊史を踏まえつつ、新たなダンス芸術における儀式性の再認、みたいなことを書こうと思う。
輸出可能な形式(振付)としてのダンスもより、一回性を重んじて儀式要素の高くなったダンス作品の発露と展望みたいなー。
アクションペインティングとダンスの繋がりを説いた、最近イギリスで出版された文献がすごく興味深かったのだ。というか「そこが繋がるのかよ?」という半信半疑で読んでるのだけれど、研究内容としては面白い。
たくさん欧米の文献とか、それこそ哲学っぽいものもたくさん読まなきゃいけない気もする、できるだけ読んでまとめたい。


副論は、突っ込まれどころ満載な散文になる予定。
自分自身に振付をすることとか、ダンスや運動や身体についての私の解釈とか、作る作品のテーマや表現方法についても書こう。


その上、秋口に小さな?本番というか久々に外部で踊る話を二つ受けてしまった。
パンクしないか今からどきどきしてる。

二年弱外には出ず一人で閉じこもってたからまぁたまにはいいか、って感じ、というか声をかけて貰えるだけ本当は有難い。

オーディションとか受けろってねー、私の教育係様は顔を合わせる度よく仰るのだけど…頑固でごめんなさいだ。
いや、嘘だ、ごめんなさいとは思ってない。笑
最近稽古場で一人で考え事しながら動いてるのも、ようやく面白くなってきた。


…こんな、ダンスしかしてなくて大丈夫なのかあたしゃ?と今思ったけど、

まぁ思ってみるものの、当然の結果なので反省は全くしてない。いえい。