2012年8月10日金曜日

ダンスについて考えること(長)

考えがまとまらないいいー


すごく個人的で主観的な話ね。

私がブリュッセルで観たいくつかのダンス作品は、もはや私がそれまでイメージしていた“ダンス”ではなくなっていた。
そして、私が“ダンス”だと思っていたものは、もはや過去のものとして、パロディー的な扱いで、笑いを誘うものとして扱われていた。
これが海外で舞台を観て一番衝撃を受けたことだったのです。
私が“ダンス”と思っていたものが、もう「古い」んだ、と言いたいわけではない、ただ、そうではないものにダンスが向かおうとしていることを強く感じた。
何か新しいものがここでは議論されているというわくわく。

この感覚を、日本にいて感じることができなかったわけではない。ただ、「そういうものもあるな」という感じの印象に過ぎなかった。
そして私自身が日本でダンスをしていて、観ていて、その只中で感じていた“ダンス”というものに対するそもそもの疑問と似たような問題に真っ向からぶつかって、そうして新しいダンスが生まれていることに衝撃をうけた。
その疑問を、取り繕ってごまかす必要はない。疑問それ自体を、そのままそこにある身体に、そして観客に問いかける姿勢がすごいと思った。

私のイメージしていた“ダンス”、それは、一連のシークエンスとしての振付がなされている、"振り"を付けた動き、身体の形をつないでいくようなもの。
ダンスの作品を作るときにまず、じゃあ振付を考えましょうか、っていう、アレ。
なんて言ったらいいんだろうか、振付の方法すら、もはや私はなんと言えばいいのかわからない。
「ここに立って、そして右手を上げて、次にその右手を左斜め下に突き刺してその勢いで左に回転して、一周したらジャンプして、着地で腰を落として体育座りになって、そこから床に寝て」みたいなの。

私はもともと、モダンダンスの出身で、かれこれずっとモダンをやってきた。
モダンダンスの作品を作るときは、まずテーマがある。絶対この方法とは限らないけれど(ほかの人は違うのかな?)、大方表現したい何かが決められて、それを表現するためにダンスが作られる。
たとえば、「風」というテーマがあったとする。そうしたら、その風をどういうふうに身体で表現するか、というところで、振付が決められていく。
風の素早さ、荒々しさ、そよぐ風、さわやかな風、みたいなものを身体で表す。もしくは、そのような風に“なる”。
別に、「風」というテーマを表すために、小説でも絵画でもいいわけであって、それでも身体でそれを表現するというところに、ダンスをする意義があるものだと思っていた。
だから私にとって、身体はあまりにも純粋に“メディア”だった。

そういう風にダンスを考えて、作品を作ってきたわけだが、学部の時にすごく行き詰った。
表したいテーマがあるなら、それを一番正確に"伝える"ダンスをするべき、というところで止まってしまった。
極端な話、言葉と動作を同じものとして置き換えようとしていたし、それならば手話でいいんじゃないかと閃いてしまったところでついに自由に動けなくなってしまった。「喋るように踊りたい」と思っていたし、それは「言葉で或る内容を示すことが出来るように、ダンスでそれをしたい」という意味でだ。
振付が思いつかない、振りを作っても何を"意味している"のか明確でなければ変えなくてはならない、ただ無機質に運動を続けても何も"意味すること"は出来ない、というか面白い動きを作れば良いんじゃない?でもその時表したいことは何処へ行っちゃうの?そんな感じだった。すごく苦しかった。

それに、ダンスの動きに対する漠然とした疑問もあった。

例えば、振り付けが出来なかったら、失敗したら、それはダンスじゃないのか?というとこ。理想の形や動き方があって、それに見合わない動きは排除されるべきなのか?ということ。
当然振りがきちんと出来るように練習しているのだけど、振りを失敗したとしても、それが良いダンスになる可能性は何故か否定できない。
それから、技量の違うダンサーたちがいて、あまり踊れないダンサーに合わせて振りを作っても、表したい効果を生み出すことが出来るんだろう、という可能性についても。
さらには、一つの動きを指定したところで、皆体つきや筋力が違うわけだから、同じ動きに、理想とする動きに必ずしも合致するわけでもない。ならば、一体何を振りつけるべきなのか、という疑問もあった。

そんなこんなで、ダンスってじゃあそもそも一体何を指すのか?という疑問が生まれた。

考えすぎかな。
今思えば、考え過ぎてたな。

こうやって私のようにうじうじ考えずとも、(考えてるとしても、そんなこと大した問題じゃねーぜ!って感じで)実に生き生きと、とにかく踊っている人もいる。
それも、素敵なこと。
馬鹿にしてないよ笑、ほんとは羨ましいんだ。



でも、いまはそんなに、そういうことで行き詰まってはいない。

ダンスって何なのか、ということは未だにずっと考えているけれど。

前よりはずっと、自由に動けるようになった、と思う。
そりゃ即興ばっかやってるでしょって言われればそりゃそうなんだけど。
動画にずっと上げているのは、その途中経過。

まずは自分の動きって、自分のダンスって一体何なのか、ずっと考えて試している。自分の動きなんてそもそもあるのか?ってことも含めて。
この先ずっと、下手したら死ぬまで踊ってゆく時には、必ずどこかでぶち当たる壁だと思うし、それを有耶無耶にして考えずにただずっと、踊っていられるわけでもないだろう。
それを考えていなかったら、例えば怪我をしたらダンスを辞めてしまうことになる(ダンスを辞める理由ってたくさんあるもんね)。


ダンスって何なのか。

今はふと、動いてることの美しさみたいなものが、動いているものそれ自体がダンスなのかのかな、と思う。
動いているもの、それはもちろん"止まっている"という動きも含むし、"動いている"という動きもある。
自分の身体の動きをどこまでも細分化して、細かく分析して、つまり身体を限りなくたくさん、細かく意識して動く、するとそれは"散らばってゆく身体"になる。その動きの全体は、視覚から逃れる動きになる。

そんな感じのことを考えている。


まだ分からないこともたくさんあるけど…
作品って何なのか、とか、振付ってどうするの、とかね。
もしかして作品作るには、もう少し時間がかかるのかもしれない、と思っている。
別に今までの経験でなんとなく作ってしまうことも出来るんだけどね、それこそ時間が勿体無いと思うし。

まぁあれだ、誰にどう思われようと、とりあえず頑張るよわたしは。



そんなこんなで久しぶりにダンスを観た。まことクラヴ観た。
上のを打ちながら劇場に向かっていたから、ちょっと複雑で不思議な気持ちになった。

チラシの束がものすごいことになっていて、わたし浦島太郎状態、ダンスの公演があまりにもたくさんあって驚いた。

えりなさんのダンスはやっぱりかっこよかった。
私、好きなダンサーって何人かいて、
いて、なんだ?
憧れている人たちがいるの。
とりあえず観れて嬉しかった。

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