2012年8月28日火曜日

(続)「原初的な運動」ー"原初"という言葉について

昨日のつづき。
「原初的な運動」についてもう少し。

まず、原初という言葉を用いる理由について。

言葉を選ぶとき、"原始"と"原初"のどちらが相応しいか考えました。両者そんなに意味の違いはないように感じられます。
しかし英語だと原始=primitiveで、原初=originです。原始の方が時間的な広がりがあって、原初の方が時間というより深さを表しているように感じます。
そこで私は原初という言葉を用いることにしました。
原始というと、現在を折り目にして歴史の大きな矢を折り畳むようなものです。私は身体のことを語るときに歴史を遡る必要は必ずしも必要ではないと思います(但し既に知っている必要はあります)。何故なら歴史の中に描かれた身体は私の身体の外郭の一部を色付けするものに過ぎないからです。また別の言い方をするのなら、歴史とは"見出されたもの"で紡がれています。その見出されたものが嘘とは言いません、しかし推測や想像が見出されたもの同士を繋いでいます。
それよりも、私たちは身体の中に潜在的に歴史を、とまでは言わないけれど、ヒトの身体の源をきちんと受け継いでいるのです。私たちは動き方を知ってから動き始めるのではありません。初めから動くことができるのです。これは当たり前のことだけれど、驚くべきことだと思います。それを丁寧に探ることが歴史を知ること以上に価値があると感じます。まずはいま、ここにある身体の中に深く潜ることが必要です。
カレーを鍋で煮ていると、グツグツと気泡が浮いてきます。カレーの温度が何度になると気泡が浮いてくるということを知っているより、鍋底で気泡がどういう風にして生まれるのかを知る方が面白いと思います。気泡が浮いていくるのを待ちわびる人たちをよそに、鍋底で気泡が生まれるのを目撃した人たちにとっては気泡が水面に浮いていくのは当たり前の結果に過ぎません。
カレーの中に人が居るという何とも言えない例えになってしまいましたが、
そんな感じです。カレーは美味しいです。


(つづく)

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