2012年9月2日日曜日

(続)「原初的な運動」ー人が集う"場所"と"空間"

余談ですが、私が劇場という場所やそこで行われるパフォーマンスについて考えを大きく改めるようになったのは、何より音楽の影響です。
自明のことであり決して悪い意味で言いたいのでは無いのですが、やはりダンスはヴィジュアルイメージが常に先行し、その陰に隠れてしまうものがたくさんあるように感じています。そのまやかしに甘えてしまうことももちろんできますが、ダンスそれ自体が必ずしもそのような表層"のみ"で行われているのではないという確信があります。
ヴィジュアルイメージが必ずしも最優先ではない音・音楽とそれを演奏する・聴く人々の間で起こっていることは、ヴィジュアルイメージの陰に隠れたダンスの本質を探る糸口を改めて教えてくれるように思います。それは、私が思考のテーマとして掲げた「儀式性」というもののひとつの側面を明らかにします。

「儀式」は人々が集うひとつの場所という特殊性が生み出すものでもあるのですが、しかし必ず場所が必要なものではありません。

何らかのパフォーマンスがそこにあるとき、パフォーマーとその観客とが目には見えない一対の線でつながれるとしましょう(そこには知覚の為の距離があります)。
このつながりはパフォーマンスの契約とも言える、パフォーマンスの根幹をなすものです。これはどのようなパフォーマンスにもあるものです。
しかし、ある種の特別なパフォーマンスは、観客同士を、パフォーマー同士を、もちろん観客とパフォーマーも、無数のつながりが錯綜する様にその場にいる人々を強く結びつけます。簡単な言葉で言えば、一体感というものでしょうか。
そのとき、観客もパフォーマーも分け隔てなく、"時間"を体験します。

さて、いよいよ説明が難儀で苦手なところに入ってきました。

現代の劇場機構はその一体感を自ずと場所が設定しています。限られた空間に人々が集えば当然生まれる感覚です。しかしそれだけで場が儀式性を帯びるというわけではありません。言わずもがな、パフォーマンスそのものの力が絶対条件であることは変わりありません。
場の人々が錯綜したがつながりをもつ、というのはただ単に他の観客の顔が見えるであるとか、リアクションを感じられるというだけでは語り尽くせないものがあります。
観客である人々は、それぞれ違う人間だよね、違うことを考えているよね、という次元のさらに高次、人々が皆一様にヒトとして、身体の奥深くに身体の記憶を共有していることを実感できる、そのようなパフォーマンスが行われる時、初めて本当に場が特殊な儀式性を帯びる様に感じます。ゆえに、劇場という機構は儀式性にとって必要条件ではありません。それは、劇場が場所である限りにおいてです。
場所は人々を囲うものです。それに対して、空間は身体の周りに、身体と身体の間に漂うものであるように感じます。その空間が熱量を発するとき、それは磁場が狂い、時間が歪められ、今まさに崖下に飛び降りんとするようなギリギリで先っぽに居るような感覚を人々に体験させます。

感覚が捉えるのは空間であろうと考えています。

(つづく)



客演の稽古が続いて非常に頭が硬くなっています。脳みそが筋肉質になっています。だいぶちぐはぐしていますが、ほぐす時間が足りない。
鈍っていた反射神経は高くなるのですが、反応しかできないのではどうしようもないと切に思いました。

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