2012年12月26日水曜日

告知など

なんだかんだXデーが近づいてきましたので、お知らせをなんとなく。
 
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修士制作作品 『slur』 公開発表
作・出演 伊藤麻希

1月21日(月)〜23日(水) 18:30〜
@立教大学新座キャンパス内ロフト1教室
入場無料、来て頂ける方は連絡ください、詳細折り返します。
 
一発目は審査発表で8日に公開します。

現代心理学研究科映像身体学専攻修了のための修士制作作品『slur』を公開します。
ソロ2作目、1年くらい掛けて作った作品です。
“slur”は音楽記号の音符をつなぐ弧線・スラーのことで、“つながり”というテーマと自分自身のダンスについて考えて作った作品です。

とても良い場所で発表できるので、お時間ありましたらぜひ足を運んで頂ければ幸いです。
作品時間はたぶん40分弱になると思います。

(もし上記日程でご都合が合わない方で、もし観て頂けるのであれば、別日でほぼ本番通りの稽古をお見せできます。)
 
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自分自身、あまり作品量産型ではないことはわかっていますが、前作から一年も開いてしまいました。
 
昨年修了できなくて延びたこの一年は、はっきり言ってありがたい以外のなにものでもありません。
ややこしいことは多々あれど、もはやレジデンスアーティスト並みに稽古場使えるこの環境を逃すのは、正直惜しいくらい。
芸術系や舞踊専門の大学に比べ、今いるところははっきり言ってダンスをしたい、作りたい私にとって穴場でした。
卒業したくねーーーって今日ふと思いました。本当に。
 
 
さて、日々稽古ばっかりしてますが、いっちょまえになんとなくスランプに突入し、悶絶しております。
大抵作品の形がある程度つめめた直後で一回落ちるのだよね、その「形がつかめた」ってときの偶然が必然に変わるまでの時間。
必然にするために再考する時間。
 
身体の調子が毎日違うように、今作っている作品は日々の変化をもろに受けるのです。
まぁダンスの作品なんてそんなものだけど、だけど、この作品はそこが勝負どころというもっともリスキーなことをしているわけで、
というか、身体の調子が作品そのものだから、毎日違う身体で同じ作品をやろうとするのがとても難しいのです。
本当に、気合だけではどうにもならない。
むしろ気合だけでやると最悪の事態が待っている。
 
恒常的な強さ、日々の変化すら「肯定する」強さがなくてはならん、とわかっていてもよくわからない。
 
 
身体の美しさをちゃんとダンスで表現したいのです。
動く身体の、動きの、美しさって言葉じゃ足りないのだけど、なんて言ったらいいんだろう、それは強さ、なのかな、
スポーツ選手の動きって無駄がなくて本当にきれいで見惚れるものがあるでしょ?、あれをダンスでやりたいのです。
 
先日Phill Niblockという人の映像作品をたまたま一部だけど見たのです。
“The Movement of People Working”
アンデスかどこかの地方で撮影されたもので、そこで働く人の動きを何人も何人もずーっと撮影してるだけなのです。主に手元とか、引きの画とか。しかもどれも顔は映ってない。そして、持続音のノイズがずっと流れている。
おそらく全編見ると何時間にも渡るものだと思われる。
 
これが最高によかったのです。衝撃的。
ものすごい中毒性があって、時間感覚が歪む。退屈するとかじゃなくて、ひたすらぼーっと見ていられる。
「こういう仕事してるんだー」とか「何作ってるんだろう?」とか、そういう物語(それをいちいち考えてるとすごく疲れるように出来てるし、試したところで数十分で力尽きる筈)の一切介入する余地のない、ただひたすら運動のみをとらえた映像。
すごくシンプル。まぁ彼がミニマリストってのも無視できないけれど、でも、いつかこういうダンスの作品作ってみたいなぁと思った。
 
そのとき一緒に見せてもらった彼の写真がまた良くて、映っている「物」が最高に輝いていたのです、手前に映っている人間やその表情よりも、道具とかの「物」がまっさきに目に飛び込んできてぞっとするくらい。
この人いったいどういう目の作りしてんだ、と思ったし、彼が見るということが作品にそのまま表れていることが感じられて、惹きつけられたのです。
 
というわけでこのDVDはもうアマゾンでぽちっとします。やっぱりもう一度見たい。全部見たい。
どうみても苦行なんだけどさ。
ジェットコースターで絶叫するために金払うのと一緒。怖いもの見たさ。
 
 
話がどんどん脱線していきますが、
だってさっきから大好きなマーラーの交響曲5番を聴いているからなのですが、
そう、一応告知を、と思って書いてた。
 
あー。
いよいよ制作副論面倒くさくなってきたぞう。。結局。書くより踊らせて。
 

2012年12月21日金曜日

楽器と身体

作品にどういう音楽や音をどのように使うか、まーったく考えがあやふやしているので、
ちょっと思いつくままに書いてみることにする。


この間訊かれたのだけど、
即興で踊る(動く)ときに、何を考えて(意識して)踊ってるの?という質問。

例えば、数字を数えている。
生活の中で繰り返しの動作を行うとき、なぜか自分の中で数を数えていることがある。
結構頻繁にやるのが、手で洗顔を泡立てているときとか。あと料理してて何かを混ぜる動作のときとか。
5とか8とか10とか、そんな数を繰り返し頭の中で唱えている。
別に意味はないけれど、繰り返す数字を数えきったところでそれを止めるために。

今の作品も長く歩く動きのときがあるけれど、割と数を数えている。


それから、聴いた音楽を思い出している。
もしくは、音楽そのものを踊っているような。

数字もそうだけど、自分の中で何らかのシークエンスがあって、それは固定されたものじゃなくて非常に流動的ではあるのだけど、
動き方のテンションの度合いや動きの間合いを肯定しているのは、かつてどこかで聴いた音楽、みたいなものっだったりするような。
別に、この曲、ってのはない。
でもやっぱり最近ちゃんと聴けることが多いからクラシックの影響が大きいのかな。

楽器が発する音やその音楽は、音が連なっていく理由が音そのもの以外にないように思われるから。ということをクラシックを聴いていて思うのだけど、まぁ音楽は全般的にそうなのかもしれない。
歌詞がある曲とかだと事情は違うけれど。


それだからか、身体が楽器、みたいな身体の扱い方が最近は割と好みなのです。
楽器本体が自分の身体そのもので、その楽器から発する音が身体で言うところの運動、みたいな感じ。
ダンスするために必ずしも見立てが必要なわけではないけれど、そういう風にして考えるのは割と楽しい。
だから、私のダンスが結局音楽そのものな気がして、だから作品に使う音楽を選ぶのに苦労する
、、わけですか?ん?

音楽に踊らされてるとか、音楽で踊るとか、そういうのがそもそもあやふやになってきた。
今の作品に関しては。
だけど自分のダンスが音楽、ってのが一番しっくりするのだよね…
音が作る空間の時間と、身体が作る空間の時間を擦り合わせる、という作業ははたして…

前から思うけれど、音はそれ自体で空間や時間を作ることができるすごいものなのですよ、
その音が作品としてあるならば尚更。私はまだ、都合よく切り刻んだりして使うなんてとてもできない。コラージュのむずかしさ。
もっと音の本質がわかるようになれば、そういうこともできるのかもしれないけれど。
音と身体を擦り合わせるってのが、そもそもおかしいのか…?

楽器である身体…が鳴らす音…とスピーカーから流れる音楽…と作品の関わり


客観性という言葉があるけれど、
自分を俯瞰してみるとか、自分の見え方を考えるとか、そういう風に考えてきたけれど、
最近はなんだか、自分を観察する、という感じに流れ着いた。
自分を観察するために、「天国のおじいちゃんが」みたいな目線は必要ない、
むしろ自分の内において、自分を観察するという視点。
それは、楽器という対象を扱うように、身体という対象という対象を扱う。
 
まぁこんなこと数多の先達がそういうこと仰ってるのかもしれんが、
なんか自分でその感覚がつかめると何かと面白い。
何の意味も理屈もなくたって、踊り続けられるんだよね、これ。

だいたい、自分の身体が自分のすべて意のままになると思っているほうが傲慢だ、と思うのよ。
ダンサーってそういうとこ過信しちゃうじゃない?笑
そう、コントロール。そりゃコントロールして突き抜けられればそれに越したことないし、そうしたい。
が、とりあえず、私の“意”なんてのがそもそも相当しょぼくて、そんなものより、身体の方がよっぽど可能性がある。


結局なんも解決しなかったな…
音どうすりゃいいんだーーーーー


さてー稽古するか。

2012年12月19日水曜日

今作っている作品のこと

今私が作っている作品は、『slur』といいます。
slurは"スラー"と読みます。slurは音楽の楽譜に使われている音符と音符の上に書かれている弧線のことで、複数の音符が滑らかに演奏されるようにと指示する記号のこと、だったと思います。

次に作品を作るときは、いつくかのシーンがある作品にしよう、と前の作品を上演した後に思って、それからぼんやりと作品について考えていました。
そしてそのいくつかのシーンは、こちらが指定する物語によって進行するのではなく、見る人があれこれ想像することによってつながれるようにしよう、と。
必ずしも進行する物語ではなく、想像力によって過去へも未来へも進む、飛躍する、時間の感覚が作品に流れるように。
slur、つなぐものは、作品を体験する人の中に生まれるものであるということ。


slurに込めたもう一つの考えがあって、
それは、私の中でつながりが意識されることで動く身体、ということについて。

最近自分のソロ作品を作るときは大抵振付は即興的なのだけど、それは私の中でダンスというものの考え方が大きく変わったということによるのです。

何度も何度も試したのだけど、ソロの場合、私はどうも、自分で自分の動きをきめる振付というものが上手く出来ない。
他の人の作品で作者が振り付けた振りとか、私が振付したユニゾンとかは全く問題なく踊れるのだけど、自分が振付者で自分一人が踊るときの違和感が上手く払拭できない。自由でないと感じてしまう。
これはどうもちょっとした欠陥だとは思うのだけど(自分の身体を客観的に見てシステム化して動かすのが苦手ってこと、大問題だ)、それよりもソロの作品で自分自身のダンスがどういうものか見つけるのが楽しくなってしまった。

いろんな動きの中に、ダンスであるものとダンスでないものの区別はある?
という質問を全ての踊る人に訊いてみたい。

私は、動きの形にダンスがあるんじゃなくて、動き方にダンスがあるんだと思う。

最も無駄がなくスマートで、それはすなわち自然に行われるからこそ強度を持つ人間の動きは美しいんだと思うんだよね、
ダンスが例え生活の動きからしたら無駄で過剰な動きだとしても、そのダンスが最も自然であるがままの存在として美しさを持つことが出来ると思う。

ダンスは運動の美しさを指す。今消えてしまうものの軌道や残像の強度。それはあるがままの自然であること。

みたいなことが、私の今のダンスに対する考え方。全く言葉が足りないのだけど。
そういうダンスを自分の身体で実現しようと思うとき、身体の中のつながりが最も意識されるべきだと思うのです。
身体の中のつながり、それは感じることと感じることのつながり、関係です。

水を入れた水槽を持ち上げて傾けると、当たり前だけど、移動する水。
それくらいシンプルなこと、そういう一番単純な移動、それでしかない運動、最も単純な自然。そういうことを逃さないように動くのが目標。一番近いのにともすると一番遠い身体という自然に耳を傾けること。


動きのほうが結局話が長くなってしまった、
作品についていろいろ考えるのけれど、私の考えるダンスがあっても、そのダンスがじゃあなにを表すかってのはもしかして別の問題なのかも知れないと思ったりして、
最初に書いたように作品を見る人の想像力だよねっていう私は少し無責任なのかも知れないというのが今ひとつ詰めが足りないと思われるところ。
つながりってものがどういうものなのか、それを作品が表す必要はある気がしている。そしてそれを表す方法も詰める必要があるね、媚びるようなやり方はしたくないけれど。
まぁ、今まで、テーマから媚びるような展開で散々作品作ったことのある身としては、ちょっと二の足踏んでいる。
どうも私は極端だから、適度な割合ってのが最も難関。


まだまだだ、
少なくとも、私だけは、私の作品を愛していると言えるように。それだけは。だから、もっと。

2012年12月15日土曜日

art

今ふと写真フォルダを見直していて、
ベルリンで出会った大好きな絵のことを思い出した。

前にも書いたんだっけ?
Anselm Kieferの絵。


こないだ観た、Phill Niblockの映像

意味は分からないけど、ドゥルーズの著書

仕事ってこと忘れた、マーラーの交響曲5番

また行かなきゃと思ってる、Ernesto Netoの彫刻


今年感動したもの、忘れたくないもの
を、ふと思い出す。

もっとあるけど。

舞台は日本でも海外でも見れた。
刺激的な作品がたくさんあって書き切れない。



今また、自分の作品を作っていて、表現することや芸術作品を作ることがどれだけ難しいことか、やたら考える。

Kieferの絵がどうしてそんなに感動したかって、「芸術ってこういう事だよな」っていうまさにそのままを見つけられたからで、初めて絵を見て泣きそうになった。

他人様の作品に自分のノスタルジーを重ねるのはナンセンスだし全く好きじゃない、

だけど、
小さい頃、お父さんにしばしば美術館に連れて行ってもらっては、わけも分からない作品を前にしてあれこれ考えたこと、

そこで何を見て何を考えていたかより、ただ普遍的な芸術の何かを感じていたのかもしれない。

何より小さい頃の私は、芸術家に憧れていたということ、

まぁ大人になればなるほど、
それがどんだけ阿呆なことかと思い知る。


いい意味で諦めている、
そんなに大そうなことを表現することなぞ出来やしない、
だけどちょっとくらい、私にもやらせてくれよ。

私が表現したいのは本当に、
些細なことなんだよね。



2012年12月1日土曜日

他人の身体を想像すること

友人が骨折した。理由はなんとも信じられない理由だったけれど、骨折は骨折だ、痛いんだろうなぁと想像してみる。

どういう痛みだったっけ。骨折は幸いにも剥離までしかやったことがないけれど、そのときのことを思い出してみた。けれど、どのように痛かったのかあまり覚えていない。ちゃんとくっつくのかどうかがやたら心配で、痛みに関しては「骨折とか冗談じゃねぇよ」と自分を叱責して、やり過ごしていたくらいの記憶しかない。結果的にちょっと曲がってくっついてしまったようだ、もとには戻っていない。

漠然とした考えだけれども、他人の身体を想像するためには、当たり前だけど自分の身体が必要なのだろう。ナイフで刺された人がいたら、その次に私は「それは痛いだろうな」と思う。身体の一部でしか経験したことはないけれど、ナイフで切ったら痛いということを経験しているから。

浅くも深くも、「共感」というもの。流行の言葉で言えば、「思いやり」。

バイトの都合上、身体が不自由な人をケアすることが多い。ご老人や身体に障害のある人に対して、私なんかができることはとても少ないけれど、その人にとっての「当たり前」をある場所においてもなるべく叶えられるように、と限られた想像の届く範囲で手伝いをする。
だけど、そこまでしなくていいよ、という無言のプレッシャーをかけてくれる人もいる。こちらの拙い想像力による行きすぎたお節介をたまに反省する。その人が身体で発している情報と、その人自身の感覚は私が考えるほど合致していない場合も多くて難しい。

『芸術の体系』を書いたアランが、ダンスについて書かれた章において、「ダンスを見ることができるのはダンスをしている人だけだ」と書いていた。踊らない人にダンスについて語る資格なし、と。
かなりぶっとんだ考え方だと思ったけれど(そういいながら結局アランはダンスについて文章を書いているわけだ)、簡単に言えば、ダンスをする人でなければ、踊る人の身体を感覚することはできない、と。
そんなことはない、と一蹴することもできるけれど、アランがどうしてそういうことを言ったのか考えてみるのも面白い。きっとアランが言いたかったのは、身体というメディアによって表現されるダンスを身体において共感出来るのはダンサーだけ、ということだったんだろう。
だけどダンスを見る人は踊る人が多いのも事実で、踊らない批評家の言葉をダンサーがどれだけ重用しているのか、考えてみればなんとなくアランの言うことをそう簡単に拒絶することはできないでしょう。
それよりも、ダンスを語るにふさわしい人の「ダンス」というものを考え直してみるほうが面白い。
アランが言おうとした「ダンス」とは何を指すのか。もしかしたら「ダンス」のほうに凝り固まった考えがあるんじゃないのか?とかね。

前述の骨折友人はびっこ引いたように歩いていた。足の骨折れているんだから当然か。それを見て、人間てそれでも歩くんだなぁと思った。身体の不調と身体の動き。不調?いやむしろ好ましい身体の動き。「ダンス」


一方お医者さんがしていることは、共感ではなく、感じ方の相対化、カテゴライズ。

昔から頻繁に胃が痛くなることが多くて、最近は気持ち悪くなるとすぐ吐いてどうにかしようとする癖が目立ってきたので、とうとう病院に行ってきた。ヒトが、食べたものを戻す・戻したいという気持ちになるのは、普通に考えて普通ではない。
お医者さんには「おそらく胃潰瘍」との不名誉な烙印を押されて、ネガティヴになっている。まぁ薬で治るのだから、ちゃんと治せばいいだけの話。

別に非難しているわけではないけれど、と前置きをしておく。
私の母は、割と、私たち兄弟の身体の不調に対して必要以上にネガティヴに捉える人ではなかった。ほんのりと体調が悪いことを伝えても、「そうなの~?気のせいだよ」みたいなことで割とやり過ごしてきたように思う。母自身もそういう人だし、私も実際それで乗り切ったこともたくさんあるし、今でも病気にはかかりにくい健康な身体であることは感謝している。いい意味で鈍くなっている。

だからこそ思うのだろうけれど、自分の身体の不調がどうにも許せないのだ。
自分の身体の不調は、ただの甘えなんじゃないかという考えが頭を過って、それがきちんとした病気であると判断された途端、漠然とした不安のほうが大きくなる。「よくならなかったらどうしよう」
なぜ不安なのか。そんなの当たり前か?
私にとって、私は「健康」でなくちゃならない気がやけにしている。それは例えば、母が「うちの子供は健康」と思っているそれを、崩したくないって頭の片隅で思っているから?まさかね。健康じゃない子供は母の子供じゃないってちょっと思っていたからなのか、とか、最近そんな素っ頓狂なことを考えた。こういうことをぐるぐる考えているから胃潰瘍になるんだ。

だけど、体調が悪いことを母に訴えるときに、どうしてこんなに申し訳ない気持ちになるのか。そんなんだから本気でつらいという風には絶対言いたくないし、それに対して母も「気のせいだよ」と言っていたのかもしれない。
私の場合、大抵つらいことがあっても、いつも両親には相談する気にならなくて、したとしても、相談するというよりも弱っている自分を見せること自体が許せなくて結局「大丈夫」を連呼してたり。少なくとも親の前で大泣きしながら自分のつらさを訴えたことは一度しかない。

なんにせよ、身体が常に絶好調な人なんていないのだけれど、
その人が感じる身体の不調とその人自身の関わり方は、人それぞれ。

ポジティヴな言葉、「人それぞれ」。

最近は他人の身体との断絶を思うことが多い。交わらないもの、共感できないもの、途切れてしまうもの、それを覆したいのではなく、そうやって考えでもしなきゃ自分自身の中で決着のつかないことのほうが多すぎる。
しかし断絶、という言葉を使うくらいだから、私にとっては接続しているほうが理想だったのかしら?断絶はネガティヴなことなのか、それとも誰にとっても当たり前のことなのかしら。どちらにせよその溝はあって、でもメレンゲのようにすっかすかの想像力というパテでその溝を埋めたところでどうなる?もっと強い何かがほしい。
そんなものはないのかもしれないけれど、それはもしかしたら、身体と身体をつなぐ部分にあるのではなく、身体の中にあるものなんじゃないか。
知覚じゃなくて、感覚。アランが言おうとしたことを私が解釈するならば、、