2012年12月1日土曜日

他人の身体を想像すること

友人が骨折した。理由はなんとも信じられない理由だったけれど、骨折は骨折だ、痛いんだろうなぁと想像してみる。

どういう痛みだったっけ。骨折は幸いにも剥離までしかやったことがないけれど、そのときのことを思い出してみた。けれど、どのように痛かったのかあまり覚えていない。ちゃんとくっつくのかどうかがやたら心配で、痛みに関しては「骨折とか冗談じゃねぇよ」と自分を叱責して、やり過ごしていたくらいの記憶しかない。結果的にちょっと曲がってくっついてしまったようだ、もとには戻っていない。

漠然とした考えだけれども、他人の身体を想像するためには、当たり前だけど自分の身体が必要なのだろう。ナイフで刺された人がいたら、その次に私は「それは痛いだろうな」と思う。身体の一部でしか経験したことはないけれど、ナイフで切ったら痛いということを経験しているから。

浅くも深くも、「共感」というもの。流行の言葉で言えば、「思いやり」。

バイトの都合上、身体が不自由な人をケアすることが多い。ご老人や身体に障害のある人に対して、私なんかができることはとても少ないけれど、その人にとっての「当たり前」をある場所においてもなるべく叶えられるように、と限られた想像の届く範囲で手伝いをする。
だけど、そこまでしなくていいよ、という無言のプレッシャーをかけてくれる人もいる。こちらの拙い想像力による行きすぎたお節介をたまに反省する。その人が身体で発している情報と、その人自身の感覚は私が考えるほど合致していない場合も多くて難しい。

『芸術の体系』を書いたアランが、ダンスについて書かれた章において、「ダンスを見ることができるのはダンスをしている人だけだ」と書いていた。踊らない人にダンスについて語る資格なし、と。
かなりぶっとんだ考え方だと思ったけれど(そういいながら結局アランはダンスについて文章を書いているわけだ)、簡単に言えば、ダンスをする人でなければ、踊る人の身体を感覚することはできない、と。
そんなことはない、と一蹴することもできるけれど、アランがどうしてそういうことを言ったのか考えてみるのも面白い。きっとアランが言いたかったのは、身体というメディアによって表現されるダンスを身体において共感出来るのはダンサーだけ、ということだったんだろう。
だけどダンスを見る人は踊る人が多いのも事実で、踊らない批評家の言葉をダンサーがどれだけ重用しているのか、考えてみればなんとなくアランの言うことをそう簡単に拒絶することはできないでしょう。
それよりも、ダンスを語るにふさわしい人の「ダンス」というものを考え直してみるほうが面白い。
アランが言おうとした「ダンス」とは何を指すのか。もしかしたら「ダンス」のほうに凝り固まった考えがあるんじゃないのか?とかね。

前述の骨折友人はびっこ引いたように歩いていた。足の骨折れているんだから当然か。それを見て、人間てそれでも歩くんだなぁと思った。身体の不調と身体の動き。不調?いやむしろ好ましい身体の動き。「ダンス」


一方お医者さんがしていることは、共感ではなく、感じ方の相対化、カテゴライズ。

昔から頻繁に胃が痛くなることが多くて、最近は気持ち悪くなるとすぐ吐いてどうにかしようとする癖が目立ってきたので、とうとう病院に行ってきた。ヒトが、食べたものを戻す・戻したいという気持ちになるのは、普通に考えて普通ではない。
お医者さんには「おそらく胃潰瘍」との不名誉な烙印を押されて、ネガティヴになっている。まぁ薬で治るのだから、ちゃんと治せばいいだけの話。

別に非難しているわけではないけれど、と前置きをしておく。
私の母は、割と、私たち兄弟の身体の不調に対して必要以上にネガティヴに捉える人ではなかった。ほんのりと体調が悪いことを伝えても、「そうなの~?気のせいだよ」みたいなことで割とやり過ごしてきたように思う。母自身もそういう人だし、私も実際それで乗り切ったこともたくさんあるし、今でも病気にはかかりにくい健康な身体であることは感謝している。いい意味で鈍くなっている。

だからこそ思うのだろうけれど、自分の身体の不調がどうにも許せないのだ。
自分の身体の不調は、ただの甘えなんじゃないかという考えが頭を過って、それがきちんとした病気であると判断された途端、漠然とした不安のほうが大きくなる。「よくならなかったらどうしよう」
なぜ不安なのか。そんなの当たり前か?
私にとって、私は「健康」でなくちゃならない気がやけにしている。それは例えば、母が「うちの子供は健康」と思っているそれを、崩したくないって頭の片隅で思っているから?まさかね。健康じゃない子供は母の子供じゃないってちょっと思っていたからなのか、とか、最近そんな素っ頓狂なことを考えた。こういうことをぐるぐる考えているから胃潰瘍になるんだ。

だけど、体調が悪いことを母に訴えるときに、どうしてこんなに申し訳ない気持ちになるのか。そんなんだから本気でつらいという風には絶対言いたくないし、それに対して母も「気のせいだよ」と言っていたのかもしれない。
私の場合、大抵つらいことがあっても、いつも両親には相談する気にならなくて、したとしても、相談するというよりも弱っている自分を見せること自体が許せなくて結局「大丈夫」を連呼してたり。少なくとも親の前で大泣きしながら自分のつらさを訴えたことは一度しかない。

なんにせよ、身体が常に絶好調な人なんていないのだけれど、
その人が感じる身体の不調とその人自身の関わり方は、人それぞれ。

ポジティヴな言葉、「人それぞれ」。

最近は他人の身体との断絶を思うことが多い。交わらないもの、共感できないもの、途切れてしまうもの、それを覆したいのではなく、そうやって考えでもしなきゃ自分自身の中で決着のつかないことのほうが多すぎる。
しかし断絶、という言葉を使うくらいだから、私にとっては接続しているほうが理想だったのかしら?断絶はネガティヴなことなのか、それとも誰にとっても当たり前のことなのかしら。どちらにせよその溝はあって、でもメレンゲのようにすっかすかの想像力というパテでその溝を埋めたところでどうなる?もっと強い何かがほしい。
そんなものはないのかもしれないけれど、それはもしかしたら、身体と身体をつなぐ部分にあるのではなく、身体の中にあるものなんじゃないか。
知覚じゃなくて、感覚。アランが言おうとしたことを私が解釈するならば、、

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