2012年12月21日金曜日

楽器と身体

作品にどういう音楽や音をどのように使うか、まーったく考えがあやふやしているので、
ちょっと思いつくままに書いてみることにする。


この間訊かれたのだけど、
即興で踊る(動く)ときに、何を考えて(意識して)踊ってるの?という質問。

例えば、数字を数えている。
生活の中で繰り返しの動作を行うとき、なぜか自分の中で数を数えていることがある。
結構頻繁にやるのが、手で洗顔を泡立てているときとか。あと料理してて何かを混ぜる動作のときとか。
5とか8とか10とか、そんな数を繰り返し頭の中で唱えている。
別に意味はないけれど、繰り返す数字を数えきったところでそれを止めるために。

今の作品も長く歩く動きのときがあるけれど、割と数を数えている。


それから、聴いた音楽を思い出している。
もしくは、音楽そのものを踊っているような。

数字もそうだけど、自分の中で何らかのシークエンスがあって、それは固定されたものじゃなくて非常に流動的ではあるのだけど、
動き方のテンションの度合いや動きの間合いを肯定しているのは、かつてどこかで聴いた音楽、みたいなものっだったりするような。
別に、この曲、ってのはない。
でもやっぱり最近ちゃんと聴けることが多いからクラシックの影響が大きいのかな。

楽器が発する音やその音楽は、音が連なっていく理由が音そのもの以外にないように思われるから。ということをクラシックを聴いていて思うのだけど、まぁ音楽は全般的にそうなのかもしれない。
歌詞がある曲とかだと事情は違うけれど。


それだからか、身体が楽器、みたいな身体の扱い方が最近は割と好みなのです。
楽器本体が自分の身体そのもので、その楽器から発する音が身体で言うところの運動、みたいな感じ。
ダンスするために必ずしも見立てが必要なわけではないけれど、そういう風にして考えるのは割と楽しい。
だから、私のダンスが結局音楽そのものな気がして、だから作品に使う音楽を選ぶのに苦労する
、、わけですか?ん?

音楽に踊らされてるとか、音楽で踊るとか、そういうのがそもそもあやふやになってきた。
今の作品に関しては。
だけど自分のダンスが音楽、ってのが一番しっくりするのだよね…
音が作る空間の時間と、身体が作る空間の時間を擦り合わせる、という作業ははたして…

前から思うけれど、音はそれ自体で空間や時間を作ることができるすごいものなのですよ、
その音が作品としてあるならば尚更。私はまだ、都合よく切り刻んだりして使うなんてとてもできない。コラージュのむずかしさ。
もっと音の本質がわかるようになれば、そういうこともできるのかもしれないけれど。
音と身体を擦り合わせるってのが、そもそもおかしいのか…?

楽器である身体…が鳴らす音…とスピーカーから流れる音楽…と作品の関わり


客観性という言葉があるけれど、
自分を俯瞰してみるとか、自分の見え方を考えるとか、そういう風に考えてきたけれど、
最近はなんだか、自分を観察する、という感じに流れ着いた。
自分を観察するために、「天国のおじいちゃんが」みたいな目線は必要ない、
むしろ自分の内において、自分を観察するという視点。
それは、楽器という対象を扱うように、身体という対象という対象を扱う。
 
まぁこんなこと数多の先達がそういうこと仰ってるのかもしれんが、
なんか自分でその感覚がつかめると何かと面白い。
何の意味も理屈もなくたって、踊り続けられるんだよね、これ。

だいたい、自分の身体が自分のすべて意のままになると思っているほうが傲慢だ、と思うのよ。
ダンサーってそういうとこ過信しちゃうじゃない?笑
そう、コントロール。そりゃコントロールして突き抜けられればそれに越したことないし、そうしたい。
が、とりあえず、私の“意”なんてのがそもそも相当しょぼくて、そんなものより、身体の方がよっぽど可能性がある。


結局なんも解決しなかったな…
音どうすりゃいいんだーーーーー


さてー稽古するか。

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