2013年1月25日金曜日

発表終了しました、ありがとうございました

slurの発表、無事に終えることができました。

ご来場くださった方々、また気にかけてくださった方々も、本当にありがとうございました。

とくに来てくださった方々は、場所がちょっと遠くて申し訳なかったです、風邪ひかれていないか心配です。

あと、稽古場占領しまくってごめんなさい。と思っている。ここを見ることはない人たちへ、、



今週はいろんな人と、ものすごくたくさんしゃべりました。
作品についても、作品とは関係のないことも、今まで思っているのに言ってなかったことも、言葉をひねり出して粗方しゃべってしまったので今、言葉が浮かんできません。

が、一つの区切りとして、お礼を言いたくて書いております。


間違いなく、この作品が今の私の全力です。

今回、クリエーションは大方一人だったけど、だからこそ作品を見てくれた人の言葉はすごく新鮮で、円盤だと思っていた地球は丸かったのね!くらいの衝撃があります。

たくさんいただいた感想や、指摘された意見を忘れないように手帳に書きとめて、
また次に向かって、先に向かって精進していきたいと思います。


本当にありがとうございました、また近いうちに!


まき

2013年1月18日金曜日

言葉

すべての言葉は、一つの世界を記述している。

言葉は、どのように使われ、またどのような意味を持つとしても、変わらずある一つの世界を記述している。
文学も、数学も、言語学も、科学も、哲学も、たとえ言語が違ったとしても、どのような言葉遣いであっても、むしろ言葉という姿を持つすべてのものにおいてそれは当てはまる。
この一つの世界とは、世界中の誰の存在にも由来しない“世界”。誰かによってその姿を捉えられ既に記述された世界ではなく、誰にでも記述される可能性を持つ世界。私は無宗教派である。
すべての言葉が、一つの世界を記述している。

個々人がそれぞれに“一つの世界”を所有しているのではない。誰もが一つの世界に触れている。
その世界に対して客観的物差しを使用することはかなわない。
誰しもがその存在(身体)を以て感じることでのみ関わることのできる主観的世界。

だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、書き手にとっての世界の切り取り方を知る。切り取り方とは、書き手の感覚や知覚である。
だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、一つの世界に対するフィルタとしての書き手を知る。フィルタとは、その人の存在そのものである。
~学とは、教え伝えられていく一つの世界を記述する方法のことである。
価値は、価値を見出す個人に由来する。二元論もまた、それを唱える本人に由来する。見出した価値や良し悪しは、その人が世界と関わる方法として他者に伝わるかもしれない。
しかし、伝わる、それだけだ。(私にとっての価値とは、そこで終了している。)

新しい世界や、誰かと異なる世界というものはない。私たちは常に、一つの世界に触れている。
一つの世界は、何とも比較されない、唯一のものである。
若し“新しい世界”というものを感じることができるのなら、それはすでに誰かによって記述された世界を、自分の新たな感覚や知覚、また世界の切り取り方として受け取っているのだ。

そして、新しさは、自分の身体の中にしか見出されない。
だから身体を使って表現しようと思うのだろう。

いつから私がこんな考えにたどりついたのかは知らないけれど、この言葉に触れるときの感覚は常にある。
誰かに“共感”してほしいわけじゃない。ここに書く言葉もまた、私が“記述する”世界の一つの姿、言葉。むしろ誰にでも、ただ届いてほしいと思うから書く。

言の葉とは、まったく素敵な言葉だ。言の葉が生る樹木はどんな姿をしているか。



…なんとなく。勢いで書いてみた。

2013年1月10日木曜日

あける、新年

あけましておめでとうございます。
遅ればせながら、本年もどうぞよろしくおねがいします。


2013年ですか。マヤの終末論を少し前に知って、その日は相も変わらず稽古してたので、正直踊ってるときに世界が終わってくれるならそれで、と思ってたのですが、終わりませんでしたね。どういうことですか。


所属する院の修了がかかった修士論文の提出締め切りを目前に控えておりまして、現在研究室はさながら年末の、あの年末特有の「何かがやってくる(そして時間が早く過ぎる!)」感でひしめいています。去年程ではないけれど。笑
ですので、まだ正式には新年は明けておりません。良いお年を!

私は制作と併せて提出する副論文をとりあえずキンコーズへ叩きつけ、あとは製本した副論が燃えたりしなければ、東京と埼玉の県境が地割れ起こして埼玉にたどり着けなくなったりしなければ、無事に出すことはできそうです。
そう、出すことだけはね…


修了するための成果として、私は言わずもがな、ダンス作品を作ったわけですが、その発表も昨日終わりました。

緊張してたつもりはさらさらないんですけど、むしろ恥も外聞も捨てた私には緊張する資格も無いわけですが、やっぱり"本番"と冠が付くと不思議と緊張しちゃうものなのですね、何かが狂う。そして狂ったテンションで研究論文の人たちに話しかけて怒られる。

まったく、アスリート並みの精神力が要るわ、と最近はよく思う。
対戦相手は観客、そして何より自分なのです。
つまらないことをしてるつもりは一切ないし、作品はちゃんと出来てるけど(一年苦しんだ)、金メダル取れるか取れないか、勝てるかどうかのレベルで完成度の到達点が違う。
関係ないけど、個人種目の人って、金メダル取ることを「勝つ」って言うよね。あれの意味が分かった気がする。

昨日は正直ムラがあった。勝ててるとこもあった。全体的にはマシだった、釈にズレがなかった。作品の全体が掴めたここ数日で、音無即興の作品で全体時間釈のズレがなくなっていた。演出の体内時計はずれてなかった。だけど若干演出の自分に出演の自分が負けていた。最近自分の動きに音楽があるのね、その身体の中の音楽が鳴らないときがあった。

しかしまぁ繊細すぎる。その繊細なところで勝負してる作品だから仕方ないが。
再来週?か、また公開発表するので、それまでに鍛え直す。


ここ一年で振り切ったものはあまりにも多い。一番大きいのは、他人の評価がどうでも良くなった。これはちょっと自分でもやばいと思うけど、でも、自分しかいないと思う。私が頼れるのは、最終的には踊る自分しかいない。
かなり荒治療したし、恐いし、今だって絶賛強がっているだけですけど、そうでも思わなきゃ立っていられなかった。
これで良いのかどうかは知らん。だって時々物凄く悲しくなったりした。

これから、他人の評価に嫌でもさらされていくだろうと思えば、そして自分にとって本当に頼らなければならない人と仕事するために、それは当然、これからも作る作品や自分のダンスを色んな人に観て欲しいと思うからだけど、
この一年は本当に大きかった。
きっと、自分の中で得たものの方が多いはず。

と、思うことにするよ。
いつだって今が一番良いと割と本気で思っている。というか思い込んでる。阿呆だから。笑


真面目くさったことたくさん書いてたから適当なこと書こうと思ってたのに、結局こんなことばっか考えてて馬鹿みたい。
でももう馬鹿は治らない。だってすごく手遅れ感があるもの。ひしひしだよ。
しかしもう胃潰瘍にはなりたくないわ。


それにしても、キンコーズが火事になってないといいな、この微妙な待機の時間、気持ち悪い。