2013年1月18日金曜日

言葉

すべての言葉は、一つの世界を記述している。

言葉は、どのように使われ、またどのような意味を持つとしても、変わらずある一つの世界を記述している。
文学も、数学も、言語学も、科学も、哲学も、たとえ言語が違ったとしても、どのような言葉遣いであっても、むしろ言葉という姿を持つすべてのものにおいてそれは当てはまる。
この一つの世界とは、世界中の誰の存在にも由来しない“世界”。誰かによってその姿を捉えられ既に記述された世界ではなく、誰にでも記述される可能性を持つ世界。私は無宗教派である。
すべての言葉が、一つの世界を記述している。

個々人がそれぞれに“一つの世界”を所有しているのではない。誰もが一つの世界に触れている。
その世界に対して客観的物差しを使用することはかなわない。
誰しもがその存在(身体)を以て感じることでのみ関わることのできる主観的世界。

だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、書き手にとっての世界の切り取り方を知る。切り取り方とは、書き手の感覚や知覚である。
だから私たちは書物を、言葉を読むことによって、一つの世界に対するフィルタとしての書き手を知る。フィルタとは、その人の存在そのものである。
~学とは、教え伝えられていく一つの世界を記述する方法のことである。
価値は、価値を見出す個人に由来する。二元論もまた、それを唱える本人に由来する。見出した価値や良し悪しは、その人が世界と関わる方法として他者に伝わるかもしれない。
しかし、伝わる、それだけだ。(私にとっての価値とは、そこで終了している。)

新しい世界や、誰かと異なる世界というものはない。私たちは常に、一つの世界に触れている。
一つの世界は、何とも比較されない、唯一のものである。
若し“新しい世界”というものを感じることができるのなら、それはすでに誰かによって記述された世界を、自分の新たな感覚や知覚、また世界の切り取り方として受け取っているのだ。

そして、新しさは、自分の身体の中にしか見出されない。
だから身体を使って表現しようと思うのだろう。

いつから私がこんな考えにたどりついたのかは知らないけれど、この言葉に触れるときの感覚は常にある。
誰かに“共感”してほしいわけじゃない。ここに書く言葉もまた、私が“記述する”世界の一つの姿、言葉。むしろ誰にでも、ただ届いてほしいと思うから書く。

言の葉とは、まったく素敵な言葉だ。言の葉が生る樹木はどんな姿をしているか。



…なんとなく。勢いで書いてみた。

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