2013年3月20日水曜日

屁理屈の一分

纏まりのない文章をひとつ。


ここ一、二ヶ月、非常に穏やかな気持ちで過ごしてる。

それは感情が凪いでいるからなのだが、まぁこれが、全くもって生きている感覚が無いという問題でもありまして、困ったもので。
感情のうねりで気持ち悪いくらい考え事して、ギチギチの嫉妬や自己嫌悪みたいなものが渦巻いているほうが、残念ながら生きている感覚はあるのです。そりゃもう残念以外の何ものでもありません。


僧侶のように穏やかな気持ちで、ぼんやりとこれからのことを色々と考えました。
同時に、「何もしない時間」についても考えました。いよいよ悟りの道が開けそうです。

それなのに。先日久方ぶりにダンスのことを本気で考え始めるや否や、頭が異様に冴えてくるのが分かって、さて、どうしたものか。
ダンスのこと、身体のこと、表現のこと、そういうことを考えるのがやっぱり好きなのです。何より楽しいのです。アドレナリンみたいなものが分泌されます、どうしてこうなっちゃったのですか。

しかしまぁなんと言いますか、そういうことをいくら考えたって、所詮お金にはならないわけですよ、

…ひとつ、お金になるかならないかという基準は、多くの人の人生において正解/不正解の線引きをするものなのやも知れません。
が、正解や不正解なんて往々にしてどうでもいいものでして、大事なのは勝つか負けるかの話です。
誰と戦っているかといえば、他ならぬ自分です。

昔宝塚を受験しました。
中学生の私が考え得る、ダンスや舞台に関わりながら金を稼ぐ方法のひとつでした。
まぁ見事に落ちたわけですが、先日ヨガのインストラクターをしている宝塚出身の人を見かけて、着地点は同じだったのかと一人納得してしまいました。
その時から今まで、考えていることは結局同じです。むしろ学歴が付いたお陰で、ややこしい感じに箔が付きました。肩書きすらあります。


器用貧乏な自分を追い詰める為、「無駄なことはしたく無い」と日々心の中で唱え続けております。
次に「無駄ってなんだよ…」と考えております。
そして着々と悟りの道は整地されています。

そういうことしてるから、「そんなことはどうでもいいから踊れ」と思われてしまうのでしょう、
今までにもいろんな人に散々そのようなことは言われましたが、残念ながら考え事するのも私の身体の機能の一部なので仕方ないのです。
ただ単純に踊れるってだけの人間ならどれだけ良かったか。


ダンスや舞台、芸術すべては結局多くの人にとって無駄なものです。
無駄じゃない、必要なものだ!と言ったって仕様がないのです、だって間違いなく無駄だもん。

しかしその逆に必要なものはどれだけ本当に必要なものなのか考えてると、芸術はむしろはじめから無駄なものってだけ自由でマシだと思うのだけど、どう?
屁理屈だろうか。屁理屈だな。



今日の気候は、私が卒業出来なかった記念の傷心旅行に行った去年の5月の欧州の気候によく似ています。
あのときも、一日一回舞台を観る以外の時間は何もしない時間だったなと思い出します。毎日同じ街をぼーっと歩いたりしてた。


ダンスや舞台のことがなければ、私は本当に亀みたいな生活をしてたと思う。ダンスがあるせいで、私の生活はむしろどうでもいいことだらけになってしまったのだよ。

踊りたい。負けたくない。

2013年3月10日日曜日

subjective

先日、仲良くしてくれているおじさんを囲んで飲み会が開催された。

この方は、それはもう輝かしい職歴とセンスで舞台や音楽などの文化芸術事業を切り盛りしている方だけど、相当気さくなおじさんで、話していてとても楽しい。
あれをするといい、これをしたらいいと好き勝手に若造の私たちに人生の指針を示して楽しんでいる。
私も、映画俳優になれだの億万長者と結婚しろだの色々言われた。

無責任で、だけど誰よりも本人が楽しそうに話すから、こちらも話を聞くのが楽しい。


「人に何かを教えるということは、宗教とそんなに変わらないものよ」と言ったのはフリーランスのメイクの先生をしている職場の先輩だった。
初対面の人に自分の伝えたいことを伝え理解してもらう為には、まずは出来るだけ短い時間で人の心を掴めるかどうかにかかっているという。教える技術とは、方法を知っていることはもとより、その方法が優れていることを伝えられるかどうか、というところにある気がする。
相手の知らないことをこちらが教えるとき、極論で言えば相手にそれが嘘か本当かを考えさせる必要はない。必要はなのは、こちらの言うことを信じさせる力であり、相手がこちらに開き身を委ねたとき、相手の内において"真実"が芽吹くのだろう。それは確かに、宗教と似たようなものがある。

「この人の言うことはなんだか素敵なことかも知れない」と思わせるものは、何もその人の言うこと、その内容のところに全てがあるわけではない。
説得力。それは立場や役割が理由となっていることもあるけれど、大方はその人から醸し出される雰囲気みたいなものやその人が経験してきたものが重要な要素だったりする。そして結果的にその様なものは言葉にも反映されているだろう。


当たり前のことだけれど、物事が嘘か本当かということと、信じるか信じないかということはイコールではない。

言うことに芯が通っている人は元より、どれだけ移り気が激しい相手と分かっていても、本心からそう感じて(それは言葉の文字以外の部分に表れる)言っていることは、とりあえず信じてみる。とりあえず荒唐無稽で無責任で愉快な大人の発言は、疑わず信じることにしている。
嘘か本当かはお家に帰って1人で考えればよいし、私の場合はお家に帰ったら忘れている。
リセットする力はおそらく多分相当なものだ。幼い頃正義感の強かった私は割と人の言うことに振り回されてきて無駄に鍛錬を積んでいる自負がある。


それにしても、何が嘘で何が本当かをきちんと客観的に見極められる人がどれだけいるだろうか。中途半端な客観視に振り回される位なら、あくまでも主観のみで考える方が大いに結構。ただしその主観は限りなく純粋な主観。



(だんだん話題がずれている)

考えるということは身体の機能だ。女性は恒常的な意識を持ち続けるのが苦手だと(つまり気分屋だと)言われる。間違いなく、"気分"も身体の働きの一部なのだと……

2013年3月6日水曜日

靴論

ヒールの高いパンプスを探そうと思っていて、どんなものがいいか考えています。

使い古された言い回しではありますが、自分にピッタリと合う靴を探すのは難しいものです。
ヒールのあるパンプスを履いている女性を観察していて思うのは、中々その人の脚や体型に合ったものを履いている人は多くないということです。

私がヒールのあるパンプスを選ぶときの基準をいくつか。
まず、最近新しく追加された項目として、ヒールの高さは、特に膝下の脚の長さとベストな比がある気がするということです。
それと、正面から見て最も足首が細く見える足の甲の傾斜具合ってのも参考にするべきな気がします。

それに加え、ヒールの形はふくらはぎの形と連続してキレイに見えるものであることは絶対です。
言わずもがな、試着して脚全体の形を見るべきで、もしキレイに見えなかったら一つサイズを落とすこともあります。踵がベルトのものとかであれば、下手するとちょっと小さい方がとキレイに見えることがあります、入ればね。

靴そのものの機能として、ヒールそのものが踵の中心より後ろに外れているものは絶対歩きにくい。それから、靴底から土踏まずが浮くものはそもそも体重が支えらないから、重心がふらついて脚が疲れる原因になります。
ヒールが地面と垂直じゃない状態で履いている女性がたまにいますが、心底信じられません。そういうときは背後から、心の中で合掌しています。汚い、以前に骨格の歪みがこちらまで伝わって来て非常に気持ち悪いです。

もともとヒールは、フランスの軍隊で生まれたものと言われています。歩き易さを重視して取り入れられたそうですが、それは、土踏まずを持ち上げることから始まったんじゃないかなと想像します。そしてプライドの高いフランス人が、背を高く見せるためにヒールの高さを上げていったんじゃないかと勝手に思っています。

どちらにせよ、良い靴はまず、土踏まずがきちんとあるものです。しかし、市販のパンプスは土踏まずがほとんどありません。まさに大は小を兼ねるで、ゆとりのある方がひとまずいろんなお姉様の足が入るのでしょう。だけど土踏まずが靴底から浮いていると疲れ易いよって、なぜ靴屋の人は言ってくれないのでしょうか。


紳士用のものだとこんなに考える必要もないと思いますし、婦人用でも、他の種類の靴だったらそんなに考えません。しかしヒールだけは、ちゃんと形を見ておかないと歩けなくなるから本当に気をつけるべきだと思います。
高いヒールを履いておいておっかなびっくり歩いている女性の姿程間抜けなものはない。ヒール履いていつもと同じように歩こうとするから怖いのです、ある程度歩き方を変えないと。

自分に合う靴はなかなか見つからないのー、なんてロマンチックなことを言っている場合ではなく、合わない靴を履くことがどれだけ体に負担を掛けるか、考えるだけで恐ろしい。
まぁ…その為にオーダーメイドってものがあります。


これだけ散々拘ることはあるのですが、結局最後は値段との交渉をせざるを得ないところがなんとも残念です。
仕方ないので、自分で細工するしかありません。

結論:良い靴は高い。


以上、スニーカーは汚して履き潰したい派の人の説得力のない話でした。

2013年3月2日土曜日

catchy

ここ最近、自分がエッセイと呼ばれる類の読み物が好きなことに気がついた。

エッセイとは、只書き手の思うことが書かれている随想というもの。文章はいずれにせよその様にして書かれるのは自明のことだが、言葉の選び方、文章の進め方など書き手が言葉そのものと対峙しながら折重ねる言葉は、ただ言葉の音を噛み締めながら読み進めるに相応しい。
むしろ私は、いつだってその様にして文章を読むものだから、書かれている事柄というものが記憶に残らない。
日本人だなぁと思う。

先日ある人の文章を読んだとき、「構文が崩壊していて読み物としてどうなんだ」と偉そうにケチをつけた。今となっては、そのことを反省、とまでは言わないまでも、それはそのままで良かったのだろうと思っている。
読み易い文章を連ねる為の技術があることは知りながら、そんなものに果たしてどれ程の価値があるものかしら、と思うこともある。

「もっとも世俗を気にしている者は、芸術家である。」
という太宰治の言葉は、たくさんの人の名前や顔を思い起こさせるから、愉快。
当たり前だが、"だから気にしないことがよい"とは一言も、太宰は言っていない。
ヒトもそう、"何となく"存在しているものは多々あれど、元来価値の無い芸術は、どうにかして存在することの出来るお膳立てが必要なのだから、芸術家は躍起になる。

美しさは、何処に在るのか。

だからなんだ、という話。


しかし、
キャッチー、とは。

仕事しながら、音楽ってなんだったっけ(笑)?と思わされる。今日は特に。


この間、自分で作品を作ったときの大きな目標は、観客の思い描く世界観や想像を支えられる強さを自分一人で生み出し続けられるかということだった。

偉そうにそんなことを吹聴したように記憶している。それは私が今まで取り組んだことのない課題であった(とくに"一人で"という点において)から取り組む価値はあったのだが、考えてみればその様な考え方が普段の生活での指針と似通っていることにはたと気づいた。
出来ているのかは知らないが、私は、接する相手の世界観において、常に従順な登場人物で居ようとする節がある。
それが至極まともな生活を送る人間にとっての円滑だが、私にとって良いことなのかはいよいよ分からない。




暫く、日記を書こうと思って言葉を書き溜めたものの、どうにも一つの文章に仕上がらない。
そうこうしている内、気合が入らぬまま一ヶ月が経ってしまった。

その間に、人前で踊ったり胃カメラを飲んだり大事な書類にサインをしたり実家で引きこもったり。
読み進めた本が数冊、そして、これから読もうと思って手元に置いている本が数冊。