2013年4月2日火曜日

情熱ということについて(岡潔・小林秀雄『人間の建設』、フランシス・ベーコ ン展)

岡潔・小林秀雄『人間の建設』(新潮文庫)

最近読んだもののうち、数学者の岡潔と批評家の小林秀雄が対談しているものが活字になった『人間の建設』という本がとても面白かった。
対談自体は1965年と少し昔のものだけれど。

岡潔の言葉が興味深い。特に数学における知性と感情の関係についての話は数学の枠をはみ出した感性で語られていて、数学をよく知らない私にとっても数学の面白さを感じさせる。

"抽象的になった数学"、もともと抽象的とも言える数学が、内容を失ったとき、いよいよ単なる観念になってしまう。内容のある抽象的な観念は往々にして抽象的とは感じないものだが、実在を失って空疎な内容しか持つことの出来ない観念は抽象的になってしまうということ。

"知性と感情の関係"、知性や意志には情を説得する力はなく、しかし心が本当に納得するためにはどうしても感情的な同意が必要。感情といった類のものとは最もかけ離れた場所にあるように見える数学の世界において、実は感情が納得しなければ数学は成立しないということが研究で実証された。数学の歴史が四千年あって、最近初めてそれが分かったのだそう。

特に興味を引かれた二つの項目。
(それにしても、数学者っていったい何をしている人なのだろうか…?今まで数学者には会ったことない。)

全く意味がわからない数学の言葉を使っていても、岡潔の言葉は何故かすっと(なんとなく)理解できるように感じてしまう不思議。

「人は記述された全部をきくのではなく、そこにあらわれている心の動きを見るのだから、わからん字が混ざっていてもわかると思います。」(岡・124頁)

そう自覚している人だからこそ、言葉の使い方や発し方には気を配っているんだろうなと思う。そのような点で小林秀雄の批評の在り方と通じるところが見受けられて、分野が全く違う2人ではあるけれどその会話は円滑で淀みなく、むしろ普遍性に富んでいる。
つまるところ2人が話しているのは"人間の建設"について。


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フランシス・ベーコン展 @国立近代美術館

展示の中には、今まで参考資料の図版などで何度も目にしている作品も幾つかあった。一見しただけでは一体何を描いているのか分からずに混乱した、ベーコンの絵を最初に図版で見たときのあの衝撃は忘れられない。その衝撃は美術館で実物を前にしてこみ上げることは無かったのだが、改めてベーコンの絵は一体何を描いているのか考えてしまう。

先に感想をまとめると、展覧会としてはあまり完成度が高いとは思えなかった。
これまで日本ではベーコンの展覧会自体が珍しいのだから、仕方ないとは思う。集められた作品の数が単純に少ないし、もっと各セクションが深く捉えられるように展示してほしかった。
そして展覧会全体を通して、あくまでも主観的な感想ではあるが、身体という言葉の扱い方に疑問が残る。


一つ、実際に作品を目にして明らかに私が感じたことは、ベーコンの絵は常に身体がテーマになっているが、身体を描こうとしているわけではないということ、さらにキャンバスに描かれているのは身体ではないということだ。
私がベーコンの作品を前にして目を奪われるのは、筆跡だった。身体であると分かるものを構成する絵の具の塊、筆の動きの痕跡。それは絵画として描かれたものだ。

だからこそ、ベーコンの作品から、ある種のポーズを読み取ること自体が無意味な行為(解釈)だと感じるのだ。
確かにベーコンの絵を見て一番興味が惹きつけられるのは、歪められ引き伸ばされ再構成されている身体の姿だ。しかし、例えばベーコンにとって身体がそのように見えるからそう描かれている、などという物語的想像がどれほど作品にとって必要なのかと考える。

私はそもそも、作品を"理解する"ということに興味がない。それよりも、ベーコンがキャンバスに描こうとしたもの、そして結果的にキャンバスに描かれたものがそこにあるだけで十分であり、只、ベーコンがキャンバスに向かう圧倒的な情熱を感じるためにもっと作品を見たいと感じるのだ。


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結局、情熱というものがあぶり出すものにこそ心預けられるのかなと思う。
よく母がいう、"入り込んじゃってる人"は見ていて大変惹きつけられるものがある。例えば、音楽の演奏家とか。

情熱ということについては、岡潔と小林秀雄も語っていた。

小林秀雄の文章の読み方はとても好きだ。文章から為人を読みとるような感じのもの。それはまず、情熱を感じ取ることを頼りにしている気がする。
いつだって、情熱は、伝えようとする内容より少し手前にあるものだ。


「言い表しにくいことを言って、聞いてもらいたいというときには、人は熱心になる、それは情熱なのです。そして、ある情緒が起るについて、それはこういうものだという。それを直観といっておるのです。そして直観と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。」(岡・72頁)

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