2013年4月30日火曜日

無題

「…ついでにいっておくが、ハイネは、正確な自叙伝なんてまずありっこない、人間は自分自身のことでは必ず嘘をつくものだ、と言っている。彼の意見によると、たとえばルソーはその懺悔録のなかで、徹頭徹尾、自己中傷をやっているし、見栄から計画的な嘘までついている、ということだ。ぼくは、ハイネが正しいと思う。ぼくにはよくわかるつもりだが、ときには、ただただ虚栄のためだけに、やりもしないいくつもの犯罪をやったように言いふらすこともあるものだ。それから、これがどういう種類の虚栄であるかも、ちゃんと心得ているつもりだ。しかし、ハイネが問題にしたのは、公衆の面前で懺悔した人間のことである。ところがぼくは、ただ自分ひとりのためだけに書いている。そして、きっぱりと断言しておくが、ぼくがまるで読者に語りかけるような調子で書いているのも、それはただ外見だけの話で、そのほうが書きやすいからにすぎない。これは形式、空っぽの形式だけであって、ぼくに読者などあろうはずがないのだ。このことはもう明言しておいた。
ぼくはこの手記の体裁については何物にも拘束されたくない。順序や系統も問題にしない。思いつくままに書くだけだ。
もっとも、こんなことを言うと、その言葉尻をとられて、諸君から質問を受けるかもしれない。もしきみがほんとうに読者を予想していないのなら、順序や系統も問題にしないとか、思いつくままに書くとか、そんな申し合わせをわざわざ自分自身とやっているのはどういうわけだ、しかも紙の上で? いったい何のための言いわけだ? 何のためのわび口上だ?
〈いや、実はそこのところだが〉とぼくは答える。
とはいえ、ここには複雑な心理があるのだ。もしかしたら、ぼくがたんに臆病者だということになるかもしれないし、また、もしかしたら、この手記を書くにあたって、できるだけ羽目をはずすまいために、わざわざ自分から読者を想定しているのかもしれない。そんな理由なら、何千となくある。
だが、もうひとつ、こういうこともある。いったいぼくは何のために、なんのつもりで書く気になどなったのか? もし読者のためでないとしたら、頭のなかで思い起こすだけで、何も紙に移すまでのことはないではないか?
なるほど、そのとおりだ。だが、紙に書くと、何かこうぐっと荘重になってくるということもある。そうすると、説得力が増すようだし、自分に対してもより批判的になれるし、うまい言葉も浮かんでくるというものだ。そのほかに、手記を書くことで、実際に気持が軽くなるということがある。たとえば、きょうなど、ぼくはある遠い思い出のためにとりわけ気持が滅入っている。これはもう数日前からまざまざと思い起こされて、それ以来、まるでいまわしい音楽のメロディーかなんぞのように、頭にこびりついて離れようとしないのだ。ところが、これはどうしてもふり切ってしまわなければならないものである。こうした思い出がぼくには数百もあるが、その数百のなかから、時に応じてどれか一つがひょいと浮かびだし、ぼくの気持を滅入らせるのだ。どういうわけかぼくは、それを手記に書いてしまえば、それから逃れられるような気がしている。どうして試してみてはいけないのだろう?」
ドストエフスキー『地下室の手記』



「読者の望み、それは自分を読むことだ。自分がよしとするものを読み、これなら自分にも書けたのになどと考える。また彼は、その本が自分の場を奪ったことや、自分では語るすべも知らなかったことを語ったとして恨む。自分ならもっと巧みに語れるのにと思いさえもする。
本というものはぼくらにとって重要になればなるほど、その読み方は難しくなる。ぼくらの本質はその中に滑り込み、ぼくらの用途に合わせてその本を考えてしまうからだ。」

「ぼくらは誰もが病人で、しかもぼくらの病気を扱った本しか読むすべを知らない。それが恋愛を扱った本の成功となる。だれでも自分だけが恋愛を経験する唯一の人間だと思っているからだ。彼はこう考える。『この本はぼくに宛てて書かれている。他の誰にこれが理解できるだろう。』複数の男性が一人の女を愛しており、自分たちもそれぞれ彼女から愛されていると信じこんでいる。そして皆がその本を彼女に読ませようとあせる。はたして彼女は『この本はなんて素敵なの。』と言う。だが、彼女は別の男を愛していてそう言っているのだ。」
ジャン・コクトー『ぼく自身あるいは困難な存在』ー読書について



「主観的であるとは、執筆者が、文章の意味を自分だけで理解して満足していることである。読者は読者なりの理解のしかたで読んでも結構という態度である。つまり執筆者は、あたかも独語調で読者を無視してものを書く。だがペンを執る以上は対話調に書くべきであろう。もっとも対話といってもだれも問い返してくる者はいないのであるから、それだけいっそう明瞭に表現する義務があるのはもちろんである。だからこそ文体が主観的になるのを避け、つとめて客観的にすべきである。それには読者をあらぬ方向に走らせぬ文章、著者が考えたことをそのまま読者にも考えさせる迫力ある文章を作らなければならない。だがこうした文章をものするのは、思想が重量の法則に従うという事実を常に銘記している著者だけであろう。つまり思想というものは、頭から紙に向かうのは容易であるが、逆に紙から頭に向かうのは大変なことで、その場合には手持ちのあらゆる手段に助けを求めなければならないのである。さてこのような法則に従った文章ができあがると、そこに記された言葉は、完成した一枚の油絵のように、客観的に作用する。これに反して、主観的な文体の働きは、あやふやで、壁に付着した染みにも劣る。染みならば偶然想像力を刺激されて、そこにある図柄を見る人が一人くらいはいるにしても、普通の人には要するにただ染みを見るにすぎないのである。」
ショウペンハウエル『読書について』



「『私は真実のみを、血まなこで、追いかけました。私は、いま真実に追いつきました。私は追い越しました。そうして、私はまだ走っています。真実は、いま、私の背後を走っているようです。笑い話にもなりません。』」
太宰治『もの思う葦』ー或るひとりの男の精進について

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