2013年6月14日金曜日

最近のこと

なんだか書きたいことはいろいろあったのだけど、一つの文章にするのが億劫だった。
最近ここに日記書くときは、一本まとめるのに軽く数時間はかかる。何かを書き連ねるというより、文章として表す、そのエネルギーがふと湧いてきた時でないと書ききれない。

そしてそのエネルギーは最近別のところへ出掛けているので、支離滅裂のまま書いておく。



ヨガを勉強し始めたとき、ヨガの思想について知りたくて本屋へ行った。

まずは健康・美容の棚ではなく、それまでの癖でつい東洋思想系の棚へ行ってみた。
本屋と云うのは面白いもので、棚を横へ横へ移動しているとだんだん興味が薄れていったり濃くなったりする。
ヨガについての棚の一つ手前の棚はそれはそれは怪しげな宗教色の強い本や日本でも有名な宗教家の著書がたくさん置いてあったのだが、その中にあった『音の神秘ー生命は音楽を奏でる』という本が気になって、何故か買ってしまった。

この本は、もとはヴィーナーという楽器の奏者だったハズラト・イナーヤト・ハーンという人が、神秘主義を中心とした芸術や音楽、生命についての考えをまとめたものだ。
この本はヨガの思想についても触れていたのだが、何故買う程惹かれたかと言えば、音のことや芸術についても書かれていたと同時に、普段自分の考えていることが随所にそのまま書かれていたこと、また自分が考えていて辿り着けなかった答え(言葉)が書いてあったからだ。
だが、読んでいて非常に気持ち悪い。自分がそれまで探していたある種の結論が、全て「霊感」という言葉に集約されている気がしたからだ。
しかしふと思う、それに嫌悪感を抱く自分が確かにいるのだが、嫌だと思う自分もまた何らかの信念に基づいて思考しているのだろう。少なくとも私はこれまでスーフィーとして生きてきたわけではない。そんなことは当たり前のことだけど、だったら今まで分からないと思っていたことも、ここに書かれた言葉で決着をつけることもなく分からないままで良いか、と思った。この本に書かれていることをそっくり受け取るつもりはないし、分からないままに、その感覚を的確に表現しよう、と思った。
自分が無神論者だとも思わない。ただ信仰に対して意識せず、曖昧なまま生きていられるというだけだ。



大学院に居ると、自分の信念(専門)に従ってある種の結論(言葉)を的確に表現しなければならない。
そのためにたくさんの本を読み、たくさんの知識を手に入れ、先行研究が何を結論付け、自分はそこから未来に対して何を語るのかが重要となる。
それが悪いこととは思わない。その労力を間近で見ているからこそ、むしろ個人的にはかなり尊敬している。その方法は私には無理だと思ったけれど、別のやり方で私も同じ位自分の言葉に責任を持ちたいと思った。が、それは博士に進んでやることではないと思った。

人は誰しも言葉を使って考え、語る。
だが多くの人は曖昧な言葉をさも自分の持ち物のように好き勝手に振りかざす。意識していないだけ、といえば、そうだ。
研究者が完璧なまでに客観的な事実に基づいて言葉を扱うとしたら、芸術家は究極に透明な、主観的な言葉を扱う。…ちょっと適当に書いている。



それで、大学とはおさらばしてヨガの先生の資格をとってみた次第。
私にとっては、人に身体のことを伝えるのは、自分のダンスで、ダンス作品を制作することとイコールで繋がっている。少なくともヨガは私にとって接客の方法論。



前から考えていることで、話したこともあるかもしれないけど、
あくまでも私の考え方だと、ダンスは動きの種類や振付のことだけを指すわけじゃない。というと誤解を招きそうなのだけど、ある特定の動きの、その格好や姿を"ダンスの動き/ダンスでない動き"と区別するのは非常にナンセンスで、むしろ重要なのはどんな人間のどんな動きもダンスになるという可能性。(火曜日に聴いた講演会の言葉で言うなら、振付=買い取られた死んだ身ぶり)
ならば私がダンスである/ダンスでないと区別してみようとする基準は何なのかといえば、動きはどの様なものであったとしても、動き方や質、ないしは動きの見せ方の部分にダンスが見出せるかということ。
身体において、それらの条件を満たし超える可能性を引き出すのが振付だと思う。脚を頭上まで振り上げたり、ものすごいスピードで自転することに意味や価値はあるかといえば、全くない。あるのは人間の身体のスペクタクルだけ。だけどその動きが、例えば美しさも備えていたらそれだけで説明は不要だし、動き一つで観客の知覚を惹きつけることが出来る。
そこで重要なのは、動きの強度だ。例えばより純粋に、スマートに、無駄なく動きを行うこと。一瞬一瞬に生まれては消える動きを、"それでしかない動き"に高めて繋いでいくこと。



それでもって、じゃあダンスを作品にするってなんなんだといえば、少々事情が違う気もします。しない気もします。しますが、あんまりよく分かりません。
今度30分作品を発表させてもらえることになって今稽古してるけど、はてどうしたものか。

なんとなく最近思うのは、私が作品において表したいものは、私の"見ているということ"なのかもしれないということ。



"何を"見ているかでない。むしろ目に見える物を見ているわけでもない気もするし、
敢えて"目"や"見る"ということを掲げるのは、私がダンスという表現方法を使うからだと思う。
観客に"見ている"という行為を問う、と言ったら言いすぎか。

長らく、目が悪いくせにメガネもコンタクトもせず、あまり見えていない状態のまま過ごしている。今日のような時化ている日は特に見えない。
世の中は少し見えない位がちょうどいい。大切なことは目には見えない。仕事の時はメガネかけるよ。
たぶん、感覚だけで生きている。



8月2〜4日に横浜のSTスポットという劇場で、新作の小作品を発表します。

タイトルは「譚々」、テーマはおそらく植物、なのだと思う。
大学学部時代の作品たちは大体タイトルが平仮名だった。院のときは英語。卒業したらとりあえず漢字になった。特に意識はしていないが。

先日は相方を借り出して稽古をしてみたけれど、稽古というよりもはや茶話会だった。
表現やパフォーマンスのこと、よもやま話をして幾つか作品の構成を試してみただけだけど、少しずつ作品の形が見えてきた気がする。相方くん、こちらの「理由は無いけどなんとなくこうしてみようと思った」に対する器の広い対応力が半端なく、これまでどういう鍛錬を積んできたのかと聞きたくなるくらいだ。
私が見失わなければ、繊細で強固な作品になるだろう。



数日に渡って書いていたものを、推敲せずに上げている。酷い。酷いけれど、記録しておかないと消えてしまうものがありそうで書いた。

ちょっと書類を書こうと思って昔のブログを見たけれど、書いてることがあんまり変わってなくて萎えた。
ただ言葉の選び方だけが、なんだか気持ち悪く感じた。

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