2013年6月16日日曜日

音楽の時間

ぼんやり思うのは、
私がダンス作品を作るに当たって参考にすべき時間の扱い方は、演劇ではなく、音楽のそれだということ。

生のクラシック音楽に触れるときの感覚が好きなのだ。
気を衒う照明変化も一切ない、すがるような説明もない。あるのは静寂のみ、その状況で演奏家が楽器一つ手にして人前に身を晒し、たくさんの観客に演奏を聞かせるという状況。
演奏家にとってはごく当たり前のことなのかもしれないけれど、本当にすごいことだといつも思う。鍛錬を積むことで得た自らの演奏に対する揺らぎのない自信と楽曲に対する絶対の信頼がなくては立ち向かえないだろうと想像する。


昨年の、ベートーヴェンの第九を散々聞いた年の瀬に、カツァリスというピアニストがリスト編曲の第九を演奏しているCDを手に入れた。

これが、何度聞いても信じられないんだけど、何十人、下手すると合唱も入れて何百人で演奏される第九がピアノ一台で完全に再現されている。
リストの編曲も恐ろしいが、カツァリスの演奏も狂気じみている。すごいとしか言いようがない。
それよりもただただ、楽器一台に、本当に無限の可能性があるんだと心の底から思った。
ずっと1人で修了制作やってたときに、このCDに相当救われた気がする。


私が作品を作るに当たって重要なのは"見るということ"だと書いた。この前の修了制作作品も、それを一番意識していた。
そのときはPhill Niblockの映像が、そこにあるイメージをただ単純に"見る"ということを教えてくれた。何を見るかではなく、何が私の目を惹きつけ、見させるのか。

先日聞いた講演会で、あるコンテンポラリーダンスのプロデューサーが言っていたこと。
「ダンス作品を見るために、"分かる"ということは必要ない」
その通りだと思う。
…思っているよ、私は。


私にとってクラシック音楽はとても単純なのだ。
クラシック音楽というものが私にとってそれまで何も思い入れのないものだからこそ、個人的な経験を重ねることも音楽の歴史や事情に思いを馳せることも出来ないので、非常に好ましい、まっさらの状態で聞けるのだ。
聞いていて眠くなることもあれば、感動して泣くこともある。そうなる理由はそのとき聞いていた音以外に何もない。単純という言葉を抽象的と置き換えてもいいのかもしれない。
何ものかが進行する中で、鳴っている音を聞いていた、それだけ。


今作っている作品は、ラヴェルのボレロからモチーフを得ている。

ダンスやる身としては、ボレロなんて恐ろしくて使えたものじゃないと思っていた。が、GWにボレロの生演奏を初めて聞いて、そのとき演奏と共にある海外のアニメーション作家がライブドローイングをやっているのを見、あまりに自由な表現に衝撃を受けた。
だから私もやってみようと思った。


さあ、夜は更けてゆく。

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