2013年6月29日土曜日

作品と稽古

先日、ダンスについて話していたときのこと。

私のダンスの理論がある程度根源的なものに近づいているとしても、新しさがないよね、と言われた。私のやろうとしてることは既にやっている人がいるよね、という文脈だったかしら。

それから、新しさって何だろうと考えていた。だけどそのときふと浮かんだのは、「だからと言って目先の奇抜なアイデアを引っ張ってくる必要はないだろうな」という確信だけ。

その話を彫刻家のおばさんと話していたときに言われたことは、新しさって全体からしたら1%くらい、ほんの少しの部分に宿るんじゃないかということだった。だから、どれだけ作品を作っても尚満足せずに次を作り続ける羽目になると。

それでなんとなく今思うのは、新しさって、奥底のほんの僅かな個性が昇華して凝結したときに、例えば新しさという名のある種の奇抜さや強度が全体を覆うんじゃないかということ。
そのとき始めて順位ではなく好みの土俵に上がることが出来るんだろうと。
(だいたい、ヒトの造りは昔からそんなに変わらないんだから、技術革新だ!てな具合に関節が増えたりするわけでも無いんだし、新しいダンスなんて早々生まれないとも思うのですよ。)

自らとかけ離れたところにある個性はすぐに手に入るが、自らの内から作り上げていく個性ってのは果てしなく遠くにあるような気がする。その遠さは、自分の内へ向かう深さなんだろうけれど。
…なんて、考えが浅いのは百も承知で言っているが。


"ダンス"それ自体と"作品"がちょっと違うものだと思い始めたのはいつだったかしら。

最近作品の稽古していて、出演者の自分と演出の自分がいると意識が完全に引き裂かれそうになる感覚はどうしたものか。
至極当たり前のことなのだけど、今回は本当に別の人間が二人いる感覚が凄まじい。
意識が内に向かうか外に向かうか、それくらいのギャップがあって、稽古すらままならないくらいだ。
出演者として稽古すると、動くことや身体に集中してしまって作品の流れがまったく分からない。
それよりも作品の流れを考えていると身体が全く動かない、保たない、動いてもダンスにすらならないのが致命的。
そういう風なダンスの質に徐々に自分を向けていったが故なのだけど、果たしてこんな状況で良いものなのかしら?と思うこともあり、しかしながら出演者の自分の役割が全体を支配するところにないから今回だけかと思ったり。


まぁ結局、作り続けてみないと分からないってことだ。
パターンみたいなものもあるだろうし、そもそも私が私の作品に個性を見出す必要もないのかもしれない。自分で自分の個性を考えるのも割と馬鹿馬鹿しい。

ただ、なんとなく、今まで作った作品を思い出すと、何かが欠けている感覚ってのは自分の中にあるのかもしれないと思う。いつもそうだけど、作品全体のイメージが、"満ち足りたもの"ではない。なぜか、ある筈のものが無いとか無くなってくとかそんな感じのが多い。…気持ち悪いな、歴代ほとんどそうじゃん。なぜか。
そいや大学2年のときに作った作品で賞をもらった(割と初めて人様に認めて頂いた)ことがあったけど、あれは大根を摩り下ろしてくのがテーマだった。笑
(今となってはなぜ大根なのか、理由は全く分からない。)
なぜなんだ。

いや、そんなの知ったことか。
夜中だからだなー、こんなこと考えちゃうのは!!
忘れよ忘れよ。

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