2013年8月31日土曜日

ダンスに出会う場所

勅使川原三郎氏が荻窪駅からほど近い処に"カラス アパラタス"というスタジオをオープンした。

其処はギャラリーと兼ねる稽古場と、決して大きくはないが狭くはない劇場を併設する施設であり、日々ワークショップや公演、展示が行われるのだそう。

このご時世に劇場と稽古場を併設したスタジオを持つことの出来る舞台芸術家が果たしてどれだけ居るだろうか、ともするとなかなか叶わない夢でもある。
正直、何処からお金がでているのだろうか?と思わないこともない。


だけどそんなこと私としてはどうでもいい、

私は勅使川原さんの舞台が好きで、佐東さんのダンスが好き。
好きというか、素直に憧れる。
それが此処でたくさん見られる。
小さな劇場だからこそ、息遣いすら聞こえるほど近くでこんなに凄いダンスが見られる。
そう思うと、ただただわくわくするのです。

私も舞台に関わる人ではあるが同じことをしようとはゆめゆめ思いもしないし、作品がどう良いのかとかは全く分からない。そういうこと考えるのは放棄した。
ただ唯一無二、なのだよ。圧倒的で、本物。私にとっては。

どうしたらそういう風に踊れるのだろう?
どうしたらこういう舞台が作れるのだろう?
って、初めて見たときから今まで印象は変わらない。
いや、変わらないというか、毎回更新してくるから、毎回新しいから、いつまでもそう思える。
いつまでも先を走っていて欲しい。


そういう意味ではいちファンだけど、ファンという以上に大学院で直接指導を受けたっていう関わりを持ってしまったので、
期待も、憧れも、畏れも、愛おしさも、恐怖も、いろんな感情がある。

しかし、同じ時代に生きていられてよかったと、大げさではあるけれど、思っている。
それは舞台っていうものに関わる問題だから、
つまり演る人と見る人が同じときに生きてないと叶わないことだから。

だから、ただ舞台の作品を客席で見るよりも、今回のような場所ができたことが何よりも嬉しい気持ちです。
足を運ぶ場所が用意されている嬉しさ。


まぁ、こんなに嬉しい気持ちだなんて言ってられるのは、
客出しで出ていらした勅使川原さんに通りすがりに頭下げたら私のこと覚えてくれていて(忘れられてると思ってた笑)、「おお!元気?」ってニコニコしながら声かけてくれたからだと思うんだよね、全く、憎めない人です。

また、行こうと思う。

2013年8月22日木曜日

身体をゆるめる

運動科学について研究している高岡英夫が書いた『からだには希望がある』という本、ブックオフでふと手に取った。
内容が割と興味深かったので、自分の興味と併せて自分の言葉でざっとまとめてみる。

高岡英夫は自身が武道や気功に長けた人物であり、現在は運動科学研究所というところで研究をしているそうだ。その方法論はスポーツを志す人はもとより教育や音楽にも応用されているとのこと。
youtubeにも高岡がTVで簡単な体操を指導している様子がいくつかあがっていた。背の高くてすらっとした、髪が天パの柔和なおじさんだった。

この本は前半に高岡の身体に関する考察、身体をゆるめるということ、呼吸法、さらに気の扱いについてなど。
後半にその実践の解説。


この本で取り上げられていてとても興味深かったのは、身体をゆるめるということ。

例えば一流のスポーツ選手の立ち姿は、力むのではなくすーっと伸び上がるように、ともするとゆらゆらとしているかのように見える。
イチローやタイガー・ウッズなど。決して筋肉質な身体ではないものの、その立ち姿は美しい。

それを建築物に例えるならば「柔構造」であるということ。これは五重塔の構造から導き出された建築工法で、現在高層建築の建設には欠かせないものだ。
五重塔は中心に一本、決して太くはない柱がまっすぐ伸びているだけで、ほかの部分は互いにずれあうような、ゆるゆるに連結している状態だったという。この構造は地震や風によって建物に掛かる揺れの力を逃がすことを可能にし、耐久性がとても高い。
その反対は「剛構造」、これは建物のあらゆるパーツが微動だにしないようにつなぎ合わされているものを指す。
低層建築にはこの工法が向いているそうだ。

人間の身体が立っているのもこれと同じようなもので、剛構造の状態で立っている人は微動だにしないよう、力んだ状態で経ってる。
対して柔構造の状態で立つということは、身体が常にゆれていることを受け入れ、その中心/重心のバランスを探り続けている状態。
簡単にいえば、柔構造の柱に当たるのは体幹の筋肉と呼ばれるいくつかの筋肉なのだろう。諸々の動作を行う筋肉より、身体そのものの姿勢を作る筋肉。


人間に働く最も大きな力は重力である。地球の中心にむかって引き寄せられる重力を受けながら人間が立つということは、重力に抗するようにしてちょうど釣り合いの取れているということを指す。
柔構造で立つ人はある意味力を抜き筋肉に入れる力を最大限削いだ上で、常に身体の中心を意識して立っている状態。
仰向けに寝た姿勢で肘をついて腕を直角に曲げていると、積み木がうまく積みがっているように力を入れなくても静止できるポイントがある。
腕を上げたまま寝られるという人の話を聞いたことがあるけれど、そういう状態なのだろう。

かといえ立っている場合において、五重塔における中心の一本柱は人間の背骨に当たる、とは決して言い切れない。
常時身体の中心を探り修正していく(この機能は人間誰しもが持つ機能である)ときの基準、それが重心線であり、身体がすーっと立ち上がるように見える人はその重心線が見せる印象である。
始めて立つ赤ん坊は、筋力が無いにも関わらずバランス力のみでフラフラと立つ。人間は元々誰しも柔構造としての立ち方をするはずなのだが、時を経て形成される筋肉や身体の歪みや強張りから柔構造としての立ち方が難しくなっていく。

また柔構造の身体を持つ人は、常に自身の身体の中心を意識していることで、自分の身体の外にあるモノの中心を見極める力が高いという。それはスポーツに限らず、日常生活動作においても見受けられ、例えばジャガイモの皮むきをする時に均一の厚さで皮を剥けるということはジャガイモの中心や包丁の中心をきちんと意識することで可能になる。中心は身体の内部だけの話ではない。

また柔構造であることは、洞察力にも関わってくるという。物事の本質を見極める力にも関わるという。中心を見抜く力、そこに身体の中心を意識する事が関わっているのだと。


身体をゆるめるということは、この本のみならず色んなところで目にする機会が多い。私だけだろうか。興味があるから目に付くだけか。

それだけ力を抜いて身体をゆるめるということはとても難しいことなのだと感じるが、当たり前だがただ身体の力を抜けばいいということでもない。
力を抜くにも、それ相当の身体や意識の使い方が必要になってくるし、どうしても解剖学に触れざるを得ない。
骨の仕組みとか、少しだけ知識があるだけでも全然理解が違う気がする。


ヨガのレッスンをするに当たっても、まずは自分が自信を持ってインストラクションできることも大事だけど、自分なりの知識をきちんと自分の言葉で伝えられるようになりたいものね。

頭だけで考えた言葉は絶対的に弱い。身体から言葉を紡いでいかないといけませんと教えられた。

2013年8月20日火曜日

暑中お見舞い申し上げます


しょーちゅーうーーおみまいっ もーしあげーーますうーー

正しくは残暑ですけどーーんっんー


先だって本番で切ってしまった前髪にもやっと見慣れ始めました。
皆々様におかれましては、酷暑の折如何お過ごしですか?



最近はたまにヨガの先生とかしてます。って書いたっけ?

いつからヨガに転向したのかと言われそうですが。
私的には自分のダンスと遠からず近からずです。

個人的には、ダンスしたこと無い人とか、普段身体動かさない人にヨガ教えたい。
もちろん、ダンスしてる人にもヨガが何か助けになったらいいな、とも思う。
結構ダンスとか昔からやってた私でも、取れないポーズたくさんあるからね。
まだまだ修行が足らんとです。

スピリチュアルな部分は結構どうでもいいのだけど、
ヨガのすごいところは、身体の本質的な部分、根底の部分からポーズを組み立てていくから、その人の身体に合ったポーズがその人の身体で実現出来るところ。大変面白い。

ヨガマットとかの道具やウエアも本当はそんなに必要ない気がするし(そりゃあったほうが助けになるけれど)、いつでもどこでも身体一つで出来るのがいいよね。
きっと重要なことは、普段の生活の中でヨガをしている時間が少しだけ特別な時間になることなんだろうなぁ、と漠然と思っている。

そう考えると、ヨガってのはただの名前というかイメージというか看板のようなもの。
って言うと、怒られるのかしら。
奥が深すぎて、きっと死ぬまでやっても到達出来ないんだろうなぁと思うけれど、あんまりヨガに縋りたくないとも思うじゃない。
両足が左右から首の後ろに掛かるとか、無理だもの。
無理だし出来なくても全く悲しくないし。


あんまり普段ダイエットとか健康とか興味ない人だけど、
良い悪いは置いといてただ単純に、身体は変わる、変えられるということだけは実感している。
それはヨガでも自分のダンスでも重要なことです。

最近は体幹の筋肉が鍛えられたことにより、捻って曲がった姿勢が取れなくなってきた。笑
すぐまっすぐに戻っちゃうのです。まっすぐの方が楽だから。



ヨガ用のブログとか開設しようかとか、チラシ作ってみようかとか、いろいろ策を考えつつ。
自分、はやくやれーってとても思ってる。
がんばれ自分


だらだらと書いてしまった。


あと、pc版からじゃないと見れないのかな、右のバナーに今後の出演情報とか載せたのでよろしくお願いしますー。即興のライブでございます。

まぁしばらくはヨガの先生頑張るよ。

2013年8月8日木曜日

日記

永井荷風の日記に憧れて、5,6月くらいは手帳に毎日の記録をつけていた。

しかしながら、作品の稽古が佳境に入った辺りから途絶えている。
思い出すのも面倒くさいので、放置。

久しぶりに今日は何にもしない日だった。
月曜日も火曜日も何だかんだ仕事があって気を張っていたせいか、今日は12時間以上寝た気がする。





日曜日に、N.N.N.4というダンスの公演が終わりました。
一区切りつけるために、色々忘れないように日記でも書こうかしら、と。

この公演のために、『譚々』という作品を作って上演しました。
ドラマーである大学院の後輩の畑山氏に参加してもらいました。


1月に『slur』という作品をやっているときのこと、
このときも動きは即興だったけれど、いちいち身体の部分に意識を向けるより、身体全体が一つの大きな流れを生み出していくような、不思議な感覚になる日があった。
例えばオーケストラで演奏される様な、絶対音楽のような時間の流れ方?
こうなった日は、ダンスそれ自体が一つ上の次元に行けてる気がした。
下手くそなヴァイオリンほど聞き苦しいものはないと思うのだけど、同じ楽器でも鍛錬を積んだ人が演奏することで、あの弦をこする音がどうしようもなく美しく響く瞬間。
身体の動きにも、ダンスにも同じような瞬間がある気がする。

今回は、毎回作品を通す度その状態を身体で生み出すためのもって行き方を探っていたのだけれど(そこが作品の全体だったとも言える)、
本番の1,2日前に稽古してる時だったか、となりで畑山氏ががつがつにドラムを叩いているのだけど、どういうリズムを叩いてるのか全く聞こえなくなった日があった。
単純に言えば、聞き流すことができるようになった、とでも言うのかしら。
集中力の問題だと思う。

そこから割と常に、身体をハイに入れる感覚が掴めるようになった。
栄養剤を自家製産してる感じ、代償も大きかったけれど。

気分次第で出来る稽古と違って、本番は日時が決められている。
3日間で5回の本番に照準を合わせてそこに自分のハイの状態を強制的に持っていくので、本番が終わってからバランスが取れなくて精神的に大分揺らいだ。


劇場で稽古をしているとき、STの館長である大平さんとたまたま少し話をする機会があった。
大平さんは私が大学4年のときに部活の同期と一緒にやった公演を見て下さっていて、「あのときとは大分作風が違うんだね、"美しい動き"みたいなのやりたいの?」と仰っていた。

真顔でずばり言われてちょっと恥ずかしくなってしまったけれど、まさに"美しい動き"がやりたいのです。
畑山氏のドラムを叩く動きも、私にとってはダンス=動きが効率化されて、ただその動きが人目を惹きつける。
そういうこと、色んな人に十分に理解されている気はしなかったんだけど。
自らのダンスの見方に寸分の疑いも持っていない人たちの意見も当然あったし、
そう言うだけの力が私に、作品に足りないところだと思ったり。

ダンスが、特権的な身体の動きだけを指すものになってしまわないようにしたい。
どんな動きでもダンスになる、重要なのは、私がどのような動きをダンスとするか、どのような動き方をダンスとするかということだろうと。
人間の動きはそれだけで充分に美しく、人の目を惹きつけることができると思う。
そういう種類の動きを自分自身の身体で実現するにはどうしたらいいかって考えている。
スポーツ選手の動きは美しく、お祭りの人々の踊りは人目を惹きつける。それくらい単純なことで良いんじゃないかって。

ダンスは、現実であるべきだと思う。
うまく説明出来ないけど、作り物ではないってこと。現実?現象?
「こういうことになってるんです」って説明が効かないんだよね。


振付を踊るのも楽しい。
ただ、どうしても私の場合、振付を踊り切るときは快感の方が強い。難しい振りをこなせるほどに思う。身体の中でよりスマートな回路が組み上がっていく感じは楽しい。
簡単に、酔える。私が気持ちいいだけ。
それが悪いとは思わないけど、そうじゃないものもある気がする。
どうせダンスで作品作るなら、みんながやってることわざわざやる必要はないし。


作品の構成力が弱い、みたいな指摘ももらった。
その辺、敢えてあやふやにして決め切るのを避けているから当然出てくる感想だった。
私は自分の癖で、誤解を恐れずいうと、無意識に作品を演劇的に組み立ててしまう。演劇的というか、意味のような、理屈のようなものを追っていたり。
それは、私が考えるダンスとは少し違うと思っている、私は「踊る人」を演じてるんじゃない。

かといってどう構成すれば良いのかよく分からない。だからあやふやにしといた。
今までの自分のなかで心地よい構成のうち、矛盾が生まれない範囲ぎりぎり自分に許したものだけで構成した。
これは今後の課題。


そういう風に作った作品、演奏も去ることながら私がどういう風に作品を作りたいかということを的確に読み取ってくれた畑山氏の尽力も大きくて、本当に感謝しています。
普段フルのドラムセットで演奏してる人に、スネア一つでどうにかしろって結構難題なのかな、と当初たまに思ったりした。思っただけだけど。終わってみれば別に何にも不足はなかった。
彼が居なかったらこういう作品は作れなかった。
そしてハタヤマンはみんなに大人気でした。笑



あと今回強く感じたのは、私は非常に真面目な人間だったということか。笑

なんかもう、それでいいかと思った。
かっこよくセンス良くラフな感じでやるのは無理だ。
恥を晒してやるしかないわって。
ダンスのことだけはクソ真面目にやるしかないわって諦めがついた。


それから、作品をどういう場所で、どういう企画で上演するかってことも考えた。
これはややこしい問題なので多くは書けないけれど、色々と自分の中での考えをはっきりと意識する良い機会になった。

作品を作って上演するということは、どういう人にどういう場所で見せるかということもとても重要。
大きな問題にすれば、作品が社会にどう在るのかとか。
そういうことは、作品そのものの内容にも大きく関わると思っている。
自己満足なのは頂けない。そういう作品を私もいっぱい作ってきたと思うから。
ダンスとかって、本当にそういう罠に陥りやすい。あなたがやりたいからやってるんでしょ?って言われたら終わりだと、異常なまでに危機感を持っている。
それは、"価値をつくる"っていうことを焦点にしたいと思うから。



反省点も色々あるけれど、色んな人に見てもらって、「面白かった」とか「綺麗だった」とか言って貰えたのが嬉しかった。
たまに私が踊るの見るの好きだと言ってくれる人や、感動しました!みたいなこと言ってくれる人がいて、単純にそういうのが原動力になっている気がする。
ダンスにわざわざ難しい言葉を当てはめる必要はないと思うし、私自身散々そういうことをしてみてあんまり意味がないと思った。
ダンスを語るのは非常に難しく、時に危険なこと。ダンスを貧しくする可能性もある。
やるまいやるまい…と思いながら検索してとある批評家の言葉を見てしまったけど、クソ過ぎて顎が外れるかと思ったわ。笑


まぁそんなことにいちいち囚われててもしょうがないので、これからもゆっくりとマイウェイを真面目に突っ走っていこうと思います。

とりあえず書き出すだけ書き出したので乱筆なのですが、備忘録がてら。