2018年4月19日木曜日

何を教えるのか

私が身体の仕組みについて興味を持ったのは、おそらく小学4年生の時。
担任の沢田先生の影響だと思う。

今思うと、沢田先生は体育専攻だったんだろう。
授業で速く走るためのコツを教えてくれた。

速く走るためには単純に一歩が大きい方が良い。
そのためにウエストを軽く捻る感じで出す方の脚の腰を少し送りだす。足の長さだけでなく、腰のねじりも手伝って足がより遠くだせるという仕組みだ。

子供心にとても納得し、実際速く走れたのかは覚えてないけれど、ことあるごとにこのことを思い出す。




私が大人のバレエのクラスを教えるときに何と無く決めている方向性がが二つある。


一つは、バレエの完成形を叩き込むのではなく、その完成形にどう近づいていくのかアプローチの方法を教える。

バレエという本来身体が柔らかくないとできない曲芸を誰でも踊れるようにするために、
どうして身体がそう動くのか解剖学に沿って説明し理解してもらうようにしている。
こうすることで身体の柔軟性が皆違うの初心者クラスにおいても各人が身体のレベルに合わせ動きに取り組むことができる。


先生によっては、形が完璧でなければバレエではない!ということでビシビシ言っていく先生もいらっしゃる。そして、それを望む生徒さんもいる。
それがバレエの魅力の一つでもある。

だけどそうやって目指す先はとてつもなく遠い。バレエはやっぱり難しい。
私はそうではなくどちらかというと、どんな身体でもバレエを踊れるようにするためには、というところから考える。
これはヨガの教え方から学んだ部分だ。


もう一つは、踊るのが楽しいということを感じてもらう。

バレエのように振付が細かく決まっているとつい力が入って呼吸も浅くなって動きも鈍い。
見ていてこちらも息苦しい。

なので振付がある程度入ってきたら、どういう風に踊ってほしいのかイメージを伝えるようにしている。
例えば「波のように」「目の前のお客さんに話すように」「遠い空を飛んでる鳥を見るように」「ハイジに出てくる崖、その崖下の草花を見るように」。

なんにせよその気になって踊ってもらう。形だけでは補えない運動が鮮やかになる。




それにしても、子供の自分がバレエに通っていた時には“上手に踊っているように見せる方法”ばっかり習得していたように思う。

「手先の動きが綺麗ね」って誰かのお母さんに褒められた覚えがある。
確かにそれは上手に踊っているように見えただろう。
だけどそこじゃない、と今は思う。

身体の動きやポジションについて「これはこう」としか教えられなかった気がする。
小学生くらいなら、身体をどう使うとどう動くのか仕組みは理解できたのだから、もっと解剖学的に仕組みを教えてくれても良かったのにとちょっとだけ思う。
もしかしたら教えてくれていたのかもしれないが、理解しきれていなかった。
腰を怪我をした理由もその時はわからなかった。

自分の身体をきちんと観察することができたら、それは一つ客観視を養うことにもなる。
なんて理屈を言っても、実際子供にそれをさせるのはかなり難しい。

動きは、習慣の成すものだ。
だからこそ、身体の仕組みから意識を変えて習慣的に身体の使い方を変えていっていたら今頃私はどうなっていたでしょうか。


自分がアシスタントをしている子供のバレエクラスでたまに主担当するときは、
「伝われ!誰か一人でも何かに気づけ!!」と思いながら身体の仕組みから教えるようにしている。




その子供のバレエクラスの子たちは小学校卒業とともにバレエも卒業していく。スタジオの関係上、トゥシューズも履かず。

もっと踊りたい、トゥまで行きたいという子は途中で他のバレエ教室に移っていく。
私たち講師はそのやる気を喜び、頑張ってねと送り出す。


そんな週1回のほんわかとしたお教室で、何をどこまで教えるのかというのはとても難しい。

80人以上いる生徒たち、みんながバレリーナになれるわけではないし、ましてやみんながバレエが上手なわけでもない。
運動神経の良い子も悪い子もいるし、お母さんの理想を背負ってレオタードを着てる子もいる。

そんなお教室で、プロのバレリーナだった主担当の先生たちは子供達のレベルに悩んでいる。
私は身体に興味を持って欲しいってことと、この先を楽しく生きるためにもはやもっと違うダンスとかオリジナリティを競うダンスとかを教えちゃう方がいいんじゃないかとこっそり思っている。


何を教えるのか、
その答えは教える側一人一人が違っているものだし、結局その人が何を経験してきたのかをなぞっていく気がする。

2018年4月11日水曜日

プライベートレッスンにて

そのお客様には2ヶ月前くらいに初めてお会いした。

私が担当した初日、
彼女の身体は首から腰まで鉄板が入ったようにガチガチに固まっていて、首の痛みで顔をあげて天井を見ることができなかった。

バレエなどのクラスにも参加していて身体を使うことには慣れていらっしゃるし、スリムな身体つきで一見ダンスやヨガなど得意そうに見えたのだが、
とにかく背中の過緊張からくるつっぱりがお尻や太もも外まで影響を及ぼしていて辛そうだった。呼吸も浅い。
「首固くててターン回りにくくないですか?」と訊くと「確かに」と。


ちなみに過緊張の状態とは、端的にいうと力が入りすぎている状態。
背中の過緊張はともするとすごく姿勢の良い感じに見えるが、間違った姿勢が常に力の入った状態にさせている。背中が一直線でかかと体重。
そして背中の動きに柔軟性がなく、肩首も異常に凝っている。



初回にはとにかく背中のこわばりをほぐすものを行なった。まずは背中が一枚の塊ではなく柔らかく動くものであるということをわかってもらうために部分的に動かすということをして、それまで慣れで使っていた背中をバラバラにすることを目指した。

2、3回目には背中全体と股関節(開きかたに左右差があったので)を重点的に動かし、動かしたらその部分が疲れるということ、また力を抜くということが物理的にどう感じられるのかをいちいち説明しながら行った。

先日の4回目、背中を分割して意識することは最初に比べだいぶできるようになったので、もう一つ胸を開く=肩甲骨を寄せる・脊柱を後屈させる感覚を伝え、さらに呼吸もできるだけ長くとるようにしてもらった。

結果、肋骨まわりの筋肉の緩みによって首の痛みなく簡単に天井を見られるようになったし、首の筋肉の緊張は完全に取りきれてはいないものの触ってみると以前の硬さとは比べ物にならないほど良い状態となり、過緊張が少し緩和されたように見受けられる。


今後はさらに、過緊張にならない身体の使い方、地面からふわっと立ち上がる緩んだ背骨と地面に体重を預ける立ち方まで持って行きたいと思っている。


こんなにスマートに結果が出る方も珍しく毎度テンションが上がってしまうのだが、以前から他の場所で同じような状態の方を担当していることもあり私のやり方もいくらかスマートになっていると思う。



彼女がおっしゃっていた言葉で印象的なものがある。
レッスンが終わって「力を抜く」ということについて話していた際、

「身体の委ね方が初めてわかった」

素敵な言葉だなぁと思った。


特にヨガのレッスンで「力を抜いて〜」という言葉は、本当によく耳にする。
とても抽象的であまり良い言葉ではないと考えているので、「どの部分の重さがどの方向に向かうのか」を具体的に指示することによって単に力を抜いてという表現はなるべく使わないようにしている。

そもそも力が入っている緊張状態に全く気づかない方もすごく多い。
その場合、まず力が入っているということを理解してもらわなければならない。しかし人によっては何十年もそれが当たり前になっているため、身体の常識を変えてもらうのは本当に難しい。
彼女も、自分の身体に力が入りすぎていること自体今まで考えたことすらなかったと。

そして何より、私も、自分の身体の緊張を理解したのはつい最近だ。


身体をなるべく分割していく感覚、分割とはバラバラに動くことができるということ、そのバラバラの身体がどう積み上がっているのか、重さの乗せ方・預け方、そういったことが一つにまとまって「委ねる」という言葉になった。

多分だけど、身体の状態が変われば彼女の性格すらもいくらか変わっていくのではないかと思う。



時間のかかりかたはそれぞれだと思うけれど、絶対に身体を変えられる。
そういうわけでプライベートレッスンはほぼ私の実験場みたいになっている。

2018年4月6日金曜日

グレイテスト・ショーマン

を観てきた。ちょっと出遅れてしまったのだが。


泣いた。
結構泣いた。

しかし、泣いた理由はよくわからない。



ダンスの躍動感/音楽の高揚感/クローズアップされた俳優の演技 がびっくりするくらい同じ厚みでやってくる。
すごく原始的だけと、それはすごく計算され尽くした見せ方でクレバーな印象。


オープニングの衝撃的な格好良さ。ゼロを一気に85くらいまで引き上げる演出の妙。
その85がエンディングまで続く。
緊張が途切れないよう挟み込まれる音楽に乗せられ、ただただキレのあるダンスが爽快感を生み、俳優の表情もまるでダンスのように明瞭でちゃんとこちらの感情も動く。
舞台上のミュージカルでは難しい表情だけの表現が映像だからこそできる!

見終わった感じはダンケルクに近く、
ラ・ラ・ランド見たときのどっちつかずなフラストレーションが一つ解決した。

すごく完成された時間に酔ったけれど、自分の生活とものすごく切り離された時間。物語に共感したわけではなく、脊髄反射的にブワっと涙がでた。…言い過ぎか?笑



うまく言えないんだけど、そして結構な暴論を書くけれど、
最近観るダンスや映画等々、観客自身の身体がどう感じるかが問われている作品が多い気がする。
そしてどう感じるかを表現したい作品も多い気がする。

実生活でもバーチャルとリアルの境界線が曖昧になって、鑑賞においても観客が何を経験するのか作品によって定義が違う。作品ごとに居方が問われる。

原始的で直感的なものも多い。
たとえ文化が違う人たちの間であっても、人間として共有できる感覚を提示してきたり、逆に言えば多様な人たちを相手にどうしたら多数を獲得するかもがいているようでもある。
ワールドワイド!だけどイッツァスモールワールド!

なんか発見したように書いたけれど、恐ろしく普通なことを書いているね私は。




身体がどう感じるかということ、感性が問われる。
さらに、その自分の身体で感じ取ったことをどう表すか。


これは私が学部時代にいた横浜国立大学教育人間科学部マルチメディア文化課程という場所で教わったこと。
その学部が学部再編でしばらく前になくなってしまっているということ。


最近は大学生に授業することもあって、自分が何を教えたいか改めて考える機会が多くなった。
そのときふと本屋で見かけた樋口聡先生の『身体教育の思想』という著書の中で語られる身体感性論が抜群に面白く、自分のやりたいことの道標の一つになると思った。

2018年4月4日水曜日

久しぶりに

文章を書いてみます。

今年の夏に一つまとまった文章を書くことに決めたので、言葉がすらすら出て来るように訓練。



思えばこのブログもだいぶ昔に作って、なんの恥ずかしげもなく醜態を晒したまま消すこともなくここまできた。
ここに書く前に別のところでも書いていたけれど、書き始めたのはおそらく10年くらい前だと思う。その日は雨の日だった気がする、国大近くのガストで。


ブログを書き始めた頃は、衝動的でそれでいて無責任に書いていた気がする。

ハタチの職場のアルバイトの女の子が、焼き鳥屋で男性社員の好きなトマトの肉巻きを見かけたらしく、「聞いてくださいよ!私、トマトの肉巻き発見したんですー!ここにもあるじゃん!て!」と自慢げに話していた。
私は心の中で「いや、トマトの肉巻きくらい今はどの焼き鳥屋にもあるでしょう」と思ってちょっと恥ずかしい気持ちになったのと同時に、可愛いらしい子だなと思った。

…あんまり変わらない。


まとまった文章を書くことはすごくエネルギーが要る。
ここ3、4年は全く文章を書こうと思わなかった。書こうとしたこともあるけれど、どうにも書ききらなかった。集中力が続かない。
おうちに帰ってくると全部どうでも良くなっちゃう。ラジオを聴きまくっていた。

体調が悪くて気持ちが外に向かなかったのもあるし、レッスンをただひたすらこなすことでHPをあげる日々。
レッスンの時間が始まって終わる、目の前の人をとにかく動かす。

ゆっくり作品を発表し続けているけれど、ここ2作くらいは自分で思うよりだいぶ言葉で考えることを放棄した。あんまり良いことではない。
けれど何かから一旦離れたいと思った。



そういうことが、ブログにそのまま残っている。

私は圧倒的にセンスがない。けれど、積み重ねることは得意な方だと思う。
恥ずかしい話、根拠はないけどいつも謎の自信がある。やばいやつ。




論文を書こうと思っている。

非常勤で教えている大学での教養科目の中の体育でのヨガをベースに、大学体育におけるヨガの有用性を表すもの。

でも、これはここ5年の自分の指導者・インストラクターとしてのスキルを整理するための作業になる。
身体を使って「教える」「伝える」ということについて改めて考えるため。

最近は、自分のものではない身体においてどうしたら気づきや喜び、感動や興味を引き出せるか、どう演出するかを考えるのにはまっている。
身体の変化(できれは好転)はもちろんだし、精神的な部分も同時にコントロールする方法。


最近衝撃だった、高名なヨガの指導者であるアイアンガーさんの言葉

「『信念』と『信仰』の間には途方もない違いがある。私はキリストの語ったことを信じても、それは必ずしも彼に従うということではない。私が結核にかかり、ヨーガで健康を回復したとき、ヨーガが私を治癒するとは信じていなかった。ヨーガが私を治癒したことで信仰を与えてくれた。信仰は信念ではなく、信念以上のものだ。あなたは何かを信じながら、それにしたがって行動しないことはあるが、信仰はあなたが体験するものである。あなたはそれを無視することはできないし、無視するなら、信仰ではない。信念は客観的で、それを取り入れることも手放すこともできる。しかし信仰は主観的で、それを放り出すことはできない。
 神を信じるということは二次的なことだと私が言う意味を理解して頂きたい。あなたが存在していると言う事実が、主要ではないか?あなたは存在するという生きた証しである。あなたは生きているので、改善したいと望み、今よりも良くなることを願う。これがあなたを進化させうる貴重な原動力だ。
 あなた自身が存在するということが信仰である。あなたは、生存するのを信じているのではなく、あなたの存在こそが、生きているという信仰だ。」(『ヨーガの樹』B.K.S.アイアンガー、86頁)

なんという言葉の魔力。

信仰を集めてカリスマになってみたいものよ。