2018年4月4日水曜日

久しぶりに

文章を書いてみます。

今年の夏に一つまとまった文章を書くことに決めたので、言葉がすらすら出て来るように訓練。



思えばこのブログもだいぶ昔に作って、なんの恥ずかしげもなく醜態を晒したまま消すこともなくここまできた。
ここに書く前に別のところでも書いていたけれど、書き始めたのはおそらく10年くらい前だと思う。その日は雨の日だった気がする、国大近くのガストで。


ブログを書き始めた頃は、衝動的でそれでいて無責任に書いていた気がする。

ハタチの職場のアルバイトの女の子が、焼き鳥屋で男性社員の好きなトマトの肉巻きを見かけたらしく、「聞いてくださいよ!私、トマトの肉巻き発見したんですー!ここにもあるじゃん!て!」と自慢げに話していた。
私は心の中で「いや、トマトの肉巻きくらい今はどの焼き鳥屋にもあるでしょう」と思ってちょっと恥ずかしい気持ちになったのと同時に、可愛いらしい子だなと思った。

…あんまり変わらない。


まとまった文章を書くことはすごくエネルギーが要る。
ここ3、4年は全く文章を書こうと思わなかった。書こうとしたこともあるけれど、どうにも書ききらなかった。集中力が続かない。
おうちに帰ってくると全部どうでも良くなっちゃう。ラジオを聴きまくっていた。

体調が悪くて気持ちが外に向かなかったのもあるし、レッスンをただひたすらこなすことでHPをあげる日々。
レッスンの時間が始まって終わる、目の前の人をとにかく動かす。

ゆっくり作品を発表し続けているけれど、ここ2作くらいは自分で思うよりだいぶ言葉で考えることを放棄した。あんまり良いことではない。
けれど何かから一旦離れたいと思った。



そういうことが、ブログにそのまま残っている。

私は圧倒的にセンスがない。けれど、積み重ねることは得意な方だと思う。
恥ずかしい話、根拠はないけどいつも謎の自信がある。やばいやつ。




論文を書こうと思っている。

非常勤で教えている大学での教養科目の中の体育でのヨガをベースに、大学体育におけるヨガの有用性を表すもの。

でも、これはここ5年の自分の指導者・インストラクターとしてのスキルを整理するための作業になる。
身体を使って「教える」「伝える」ということについて改めて考えるため。

最近は、自分のものではない身体においてどうしたら気づきや喜び、感動や興味を引き出せるか、どう演出するかを考えるのにはまっている。
身体の変化(できれは好転)はもちろんだし、精神的な部分も同時にコントロールする方法。


最近衝撃だった、高名なヨガの指導者であるアイアンガーさんの言葉

「『信念』と『信仰』の間には途方もない違いがある。私はキリストの語ったことを信じても、それは必ずしも彼に従うということではない。私が結核にかかり、ヨーガで健康を回復したとき、ヨーガが私を治癒するとは信じていなかった。ヨーガが私を治癒したことで信仰を与えてくれた。信仰は信念ではなく、信念以上のものだ。あなたは何かを信じながら、それにしたがって行動しないことはあるが、信仰はあなたが体験するものである。あなたはそれを無視することはできないし、無視するなら、信仰ではない。信念は客観的で、それを取り入れることも手放すこともできる。しかし信仰は主観的で、それを放り出すことはできない。
 神を信じるということは二次的なことだと私が言う意味を理解して頂きたい。あなたが存在していると言う事実が、主要ではないか?あなたは存在するという生きた証しである。あなたは生きているので、改善したいと望み、今よりも良くなることを願う。これがあなたを進化させうる貴重な原動力だ。
 あなた自身が存在するということが信仰である。あなたは、生存するのを信じているのではなく、あなたの存在こそが、生きているという信仰だ。」(『ヨーガの樹』B.K.S.アイアンガー、86頁)

なんという言葉の魔力。

信仰を集めてカリスマになってみたいものよ。



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